インド音楽と西洋音楽

 インドの音楽は、一般にいわゆる民族音楽の一つととらえられているが、この音楽に取りつかれて20年になるわたしには、一民族の特殊な芸能という以上の意味をもっている。
 インド音楽の大きな特徴は、音と音を重ねその調和の美を追求するといった和音(ハーモニー)の考え方と真っ向から対立し、あくまで線的な旋律の流れを重視することである。ところで、和音は主に西洋で発達した。非西洋音楽にはこうした考え方は稀である。世界の音楽の中ではむしろ西洋音楽は特殊な例といっていい。
 インド音楽のもう一つの特徴は、作曲者によって入念に構成され楽譜に定着される「作品」はなく、演奏者がその場その場で旋律を紡ぎ出すことで一つの音空間を創り上げることである。こうした音楽は一般に即興音楽と呼ばれるが、音階型や旋律の動きなどにかなり厳密なルールがあるので、フリージャズのように完全な即興とはいえないかもしれない。
 ともあれ、こうした特徴をもつインド音楽は、日本ではそれほどではなかったが、これまでずっと世界的に注目され、影響を与え続けてきた。その理由は、この音楽が、単なる、いわゆる民族音楽の一種を越えた生きたコンテンポラリー(同時代あるいは現代)音楽であるからだけではなく、西洋近代合理主義に対するアンチテーゼとして多くの人をとらえたからだと思う。
 西洋音楽の発展の歴史は、近代合理主義と個人主義の発展と軌を一にしているように思える。
 個人主義は、個人を尊重するがゆえに、逆に社会に厳格な規律を要求する。てんでんばらばらの個の集合体である社会は、それぞれの個をある程度管理しなければ成り立たない。人殺しを楽しむ人間を、個の自由を尊重するからといって放置するわけにはいかない。したがって、純粋な犯罪者であれ、いわゆる芸術家であれ、完全に自由な自己実現を願望する個人にとっては、社会は常に対立する環境として存在する。この、社会あるいは環境を個に対立する存在としてとらえる考え方こそ、近代合理主義の基本であろう。
 そこで、あるまとまりのある構造を創造し維持していくためには、本来対立する対象と折り合いをつけ、調和をはかることが重要となってくる。ハーモニー=調和の発想の一つは、こうした考え方が根底にあったからだと思う。
 西洋の中世ルネッサンスからバロックの時代の音楽は、作曲者による一定の枠はあるにせよ、演奏者にとって自由な即興的な演奏の余地があった。たとえば、ヴィヴァルディの楽譜をみても、通奏低音部には和音の記号としての数字が記してあるのみである。これは、奏者が作曲者の意図する和音に適っていれば自由に演奏してよいことを示している。ところが時代を経るにしたがい、演奏者に残された自由即興部分は少なくなり、ついにはなくなってしまう。演奏者は、作曲家の書いた楽譜を忠実に再現することを期待され、作曲家の意思を伝達する指揮者に全面的に従わざるをえなくなった。安定を得たが自由を失ったのである。
 一方、インド哲学の基本的な考え方は、個と全体あるいは対象は対立関係にあるのではなくむしろ一体であると考える。われわれの存在、つまりアートマン(我)は大宇宙であるブラーフマン(梵)と結局は同一であること(梵我一如)の認識が究極の目的なのである。