kimchigu

HIROSもうひとつのプロフィール

1950年1月23日寅、山形県東置賜郡宮内町字小滝(現南陽市)生れ。生後まもなく、福島県相馬市の開拓地へ。米のできない土地だったため、そば、饅頭、自家製パン、豆、かぼちゃ、イモなどで育つ。そのときの苦い味覚記憶が、後年これらの食品に対する非寛容さが育成されたと思われる。
 小滝小学生のとき、担任の先生にリコーダーを褒められる。音楽の才能があると思いこんだ両親が初めて買ってくれた楽器は、アンプのないエレキギターであった。
 宮内町立吉野中学校では、社会科の先生にヴァイオリンの手ほどきを受ける。「きらきら星変奏曲」まで進むが、楽器が中学校所有だったため占有できずなにげなく断念。
 山形県立長井高校でビートルズ、ベンチャーズの洗礼を受ける。カンツォーネもよく聴く。ジリオラ・チンクエッティ、ボビー・ソロを好んだ。イタリア語物まねがうまいのはそのせいである。高校では剣道部とブラスバンド、合唱部に在籍。東京芸大のトランペット科進学を願望してピアノを始めるが、無理なバック転による右腕骨折と意志薄弱のためソナチネで撤退する。
 北海道の大学在学中、約1年間ユーラシアを放浪。帰国後、バロック音楽をリコーダーで演奏する。大学の教養部の低成績による選択肢の制限のため、進路意志と無関係の農学部林産学科に進む。
 担当教授の法外べた褒め推薦状をよりどころに某合板最大手企業に就職。2年間の北海道営業活動ののち、大阪本社中央研究所員となるが、ほどなく会社が倒産。倒産と同時に結婚。
 神戸市内の某工務店に再就職し、建築現場監督となる。3年勤務後退職し、インドへわたる。
 1981年~1984年インドのベナレス・ヒンドゥー大学音楽学部楽理科に形だけ在籍し、読書と友人交流三昧活動にふける。そのかたわら、バーンスリー、ヴォーカルを習う。当時、非インド人の学習対象が主にシタールとタブラーだっため、将来の競争を勘案した結果、誰もやっていないバーンスリーを選ぶ。帰国後、定職につくことなく、次第に主夫業専従となった自分を発見し、その合間に演奏や企画の活動をしつつ現在に至る。
 死ぬ前の最後の食事は、ごはんと納豆にしてほしい。