ヒンドゥスターニー音楽(北インド古典音楽)
インド古典音楽は、北部を中心としたヒンドゥスターニー音楽と南半島を中心としたカルナータカ音楽に大別できます。どちらも、精緻な理論体系をもっていて手短に解説することは非常に難しい。詳しく知りたい場合は、できれば拙訳の『インド音楽序説』(B.C.Deva著、東方出版、1994)かインド内外で発行されている文献を参照して下さい。ここでは、わたしの専門であるヒンドゥスターニー音楽を中心に、ごく簡単に概要を紹介しておきます。
解説
インドにはさまざまな音楽があふれている。大衆歌謡曲、伝統的な民謡、ヒンドゥー教やイスラームなどの宗教歌、ラヴィ・シャンカルなどに代表される古典音楽、舞踊の伴奏音楽、最近では西洋音楽と折衷したいわゆるフュージョン系など。しかし、伝統的なものなど古くさいと独自のカラーをほぼ捨ててしまった日本に比べ、インドの音楽は、ジャンルこそ多彩だが昔からの語法をかたくなに守っている。フュージョン系などの出現で徐々に崩れつつあるとはいえ、その特徴をごくおおざっぱにいえば次の二点である。
1. 西洋音楽のような、異なった音を同時に重ね合わせること、つまりハーモニー(和音)という考え方がない。これは、日本の伝統音楽とも共通している。日本の民謡や童謡がハモって歌われることがないのと同様、インドの音楽もハモらない。あくまで旋律の流れが基本である。
2. 拍子(リズム)の考え方が輪廻的である。仏教やヒンドゥー教の輪廻思想を簡単にいうと、人間を含めたあらゆる生き物の死は、そこで全部おしまいになるのではなく、次の別の生の出発点でもある。インドのリズムに対する考え方もそれに非常に似ている。一定のリズム周期(ターラ)に乗って流れるメロディーは、常に次のリズム周期の起点で終わる。終わりイコール始まりだという考え方は、インド人の世界観と関係しているように思える。
ヒンドゥスターニー音楽----梵我一如をめざす即興の芸術
二つの特徴はどのインドの音楽ジャンルにもあてはまるが、そのエッセンスを究極まで洗練、発展させたものが古典音楽である。インドの音楽は、この古典音楽と大衆音楽が相互に影響しあいながら発展してきた。したがって、古典音楽の理解抜きにインド音楽の全体像を把握するのは難しい。
インドの古典音楽は大別して二つある。中部から北部にかけて行われているヒンドゥスターニー音楽と南半島中心のカルナータカ音楽である。この両者は、ともにラーガとターラ(後述)を基本にしているという意味で非常によく似ているし、最近の通信交通手段の飛躍的な発達によって相互に影響しあいつつあるとはいえ、明確なスタイルや表現方法の違いがある。ここでは、日本に主に紹介されてきた関係で読者にも馴染みのあるヒンドゥスターニー音楽を中心に古典音楽について触れてみよう。
ヒンドゥスターニー音楽は、上に述べた二つの特徴に加えて次の大きな特徴がある。つまり、あらかじめ入念に作曲された曲を楽譜に基づいて忠実に再生するのではなく、演奏家がその場で旋律を創造するという、いわゆる即興の音楽であるということ。この点で、同じ「古典」とはいえ、まるで建築物のように楽譜に定着された西洋古典音楽とは大きく異なる。即興という意味では、むしろジャズなどと共通している。ジャズの即興演奏の定義、「ジャズ演奏の生命、本質ともいうべきもので、ソロ楽器奏者の独創的なアイディア、テクニックを駆使して、与えられたテーマ(旋律)をもとにしたヴァリエーション創造に音楽的評価の目が向けられる」(『新音楽辞典-楽語』音楽之友社)は、「与えられたテーマ(旋律)」という部分をラーガと置き換えれば、インド古典音楽にもほぼ当てはまる。もっとも、インドの演奏家が目指すものは、単なる「ヴァリエーション創造」という人間の創造行為を越えた地点にある。インド人音楽家が「ナーダ・ブラフマー(神としての音)を現前させる」とよくいうように、そこに人間の喜怒哀楽を越えた普遍的な美を追求しようという態度がある。
ラーガ
ラーガ(音階型ともいえる)を要約すると、次のようにいえる。
1オクターブ12音の順列組み合わせによって作られうる音階型は無数にある。そうした無数の組み合わせの中から、音楽的な美を満たす配列が整理され、その一つ一つに名前が付けられる。それらの配列には特有の音楽的ムードがあり、そうしたムードにふさわしい感情、時間、季節などの性格が付与されたものがラーガだといえる。(もっとも、南のカルナータカ体系には、ラーガにそうした感情、時間などの性格はあまり付与されていない)。
しかし、ラーガを単なる音階型と理解してしまうと、混乱するおそれがある。なぜなら、まったく同じ音階なのに異なったラーガもあらからだ。B.C.デーヴァは、ラーガの文法を次のように定義している。1.ある定まった音列をもつ。
2.ラーガの最小音数は5、最大は9である。(ただし例外はある)
3.固有の上がりかた、下がりかたがある。
4.固有の旋律単位がある。
5.固有の強調音、開始音、終始音がある。
6.固有のアクセント、修飾技法がある。ヒンドゥスターニー音楽では、便宜的なラーガの分類として、次の10種類の音階パターン(タート)をあげている。使用音は、西洋音楽のドレミファのドにあたる音を仮にCとした。
インド音楽にはA=440サイクルというような絶対音の考え方はないので、実際はドの音がCである必要はないが、ピアノなどで実際の音を出してみれば、ラーガのある程度の考え方はつかめると思う。ビラーワルBilaval/C D E F G A B C'
カマージKhamaj/C D E F G A B♭ C'
カーフィーKafi/C D E♭ F G A B♭ C'
アーサーワリーAsavari/C D E♭ F G A♭ B♭ C'
バイラヴBhairav/C D♭ E F G A♭ B C'
バイラヴィーBhairavi/C D♭ E♭ F G A♭ B♭ C'
カリヤーンKalyan/C D E F# G A B C'
マールワーMarva/C D♭ E F# G A B C'
プールヴィーPurvi/C D♭ E F# G A♭ B C'
トーディーTodi/C D♭ E♭ F# G A♭ B C'
ターラ
リズムサイクルのこと。もともとは、手のひらとか手拍子の意味。
ターラの基本的な考え方を理解するには、1週間という周期をイメージすると分かりやすい。時間は一方向へ進んでいくだけだが、月曜日は1週間というサイクルを作るために定期的に何回も反復してやってくる。ターラも同じように、一定のリズムパターンのひとかたまりが周期的に反復される。そのひとかたまりの先頭の拍がサムと呼ばれ、さまざまなリズムの変形やメロディーの変形は必ずサムで解決するように曲が組み立てられる。ヒンドゥスターニー音楽で最近よく使われるターラを、タブラーの打点や打法を示すボール(口唱歌)ととも以下に示す。1.ティーン・タール 16拍(4+4+4+4)
dha dhin dhin dha /dha dhin dhin dha /dha tin tin dha /dha dhin dhin dha
2.エークタール 12拍(2+2+2+2+2+2)
dhin dhin /dhage trkita /tu na /ka tta /dhage trkita /dhin na
3.ジャプ・タール 10拍(2+3+2+3)
dhi na / dhi dhi na / ti na / dhi dhi na
4.ルーパク・タール 7拍(3+2+2)
ti ti na / dhi na /dhi na
5.ダードラー 6拍(3+3)
dha dhi na / dha ti na
舞台で音楽家はなにをしているのか
それでは、即興演奏の実際を、開始から終了までの具体的な流れを追ってみてみよう。
舞台に上がる前、演奏家はその日に演奏しようとするラーガをまず決める。
ラーガを決めた演奏家はつぎに、1曲に与えられた時間から全体の構成をざっと組み立てる。古典音楽演奏の構成は、伝統的に決まっている。おおざっぱに次の2つの部分である。打楽器タブラーの入らないまったくのソロの部分であるアーラープ。そして、タブラーとの合奏部分ガットである。アーラープとガットの時間配分は決まっていない。アーラープを念入りに行いガットを短めにすることもあるし、その逆もある。主奏者はこの全体構成を考える時点で、ガットで使用するターラも決定する。
さて、舞台に上がった演奏者が演奏を開始する前に行うのは、楽器の最終チューニングである。既に決めたラーガの主音、副主音を通奏するタンブーラー、主奏楽器、主音にチューニングされたタブラーなどの微妙な狂いは舞台上で調整される。このチューニングの時間は、主奏者の集中力を高める意味でも重要である。このチューニングから演奏開始には断続がないため、準備していたと思ったらいつのまにか演奏が始まっているという印象を受ける。
アーラープとガット
アーラープは、決定されたラーガの音階型、表情を紹介する過程である。主奏者は、まるでゆっくりと階段を上っていくように、一つ一つの音とラーガのもつムードを確立していく。通常、テンポのない部分(この部分もアーラープと呼ばれる)から、一定のテンポのある部分(ジョール、ジャーラー)を演奏し全体が終了する。
一定のリズム周期(ターラ)に基づくテーマが主奏者によって提示されると、後半の合奏部分ガットの開始である。ここでタブラー奏者は、提示されたテーマがどのターラに基ずくものかを瞬時に判断し、そのターラの基本パターン(テーカー)を叩き始める。ガットでは、主奏者はテーマや旋律パターンの変奏を即興的に展開する。さまざまな技術を駆使して繰り出される旋律パターンの変形は、あるまとまりをもった段階で解決され、再びテーマに戻る。主奏者がテーマを繰り返し始めると、タブラー奏者は即興的にさまざまなリズムの変形を披露する。両者はこうしたやりとりを繰り返しながら次第にテンポを加速していく。通常は途中で別のターラに移行し、両者の技術の限界に近いスピードまで全体を盛り上げカタストロフィーをむかえる。ガットでの主奏者とタブラー奏者とのやりとりは、両者の職人芸の見せどころである。このような演奏家たちの織りなすやりとり、つまり瞬間的に相手の意図を察知したパターンの再現、はぐらかし、一体となった高揚などは、聴衆にとってもスリルと興奮に満ちたものである。
音楽家が目指すもの
このように古典音楽の演奏は、ゆったりと始まり最高潮で終了するのだが、全体を一貫して流れる雰囲気は、シャーンタと呼ばれる平安な感情である。そこにあるのは、通常われわれが抱く悲しみ、怒り、喜びといった日常の喜怒哀楽ではない。演奏行為そのものは一人の人間=個我によるが、音楽は演奏者の個我を越えた地平に求められる。
したがって、インド古典音楽は「梵我一如」----大宇宙の根本原理である梵(ブラーフマン)と個我(アートマン)の究極的合一----を古来一貫してテーマとしてきたインドの哲学と無縁ではない。即興の芸術を追求し続ける小杉武久氏は、このようなインドの音楽の特徴を次のように紹介している。「音楽は、全宇宙としてのエンバイラメントの中に遍在する超越的な波動であり、音楽家は一種のアンテナと同調回路をもつ受信器であり、自我の音楽を表現するというよりも、むしろ超越的な波動をとらえる媒体である」(『音楽のピクニック』白馬書房、1991)。