ハリプラサード・チャウラースィヤーとその音楽

 わたしの師であるパンディット・ハリプラサード・チャウラースィヤー師(ハリジー)は、これ以上ないシンプルなインドの竹の横笛、バーンスリーの、そしてヒンドゥスターニー音楽の代名詞ともいえる希代の演奏家です。1993年開かれた「東京の夏音楽祭」の公式ブックレットに掲載されたわたしの記事をご紹介します。内容は、彼の現在にいたるまでの道のりと、バーンスリーという楽器についてです。→ハリジーのHPへ

Hariprasad Chaurasia(1938~)

 ハリプラサード・チャウラースィヤーの人と音楽を紹介する前に、インドの笛について概観してみたい。笛は、インドでは古代からよく使用されてきた楽器で、地理的にも広い範囲で演奏される。したがってその呼び名もさまざまである。北インドの一般的な名称は、ヴェーヌ、ヴァンスィー、バーンスリー、ムラリなど。一方、南インドでは、ピッラーンクラル、ピッラナグロウィー、コラルなどと呼ばれている。どれも、筒とか材質である竹などを意味する言葉である。
 インドの笛がいつごろから使われ出したのかははっきりしていないが、インド各地の古い石窟寺院の彫刻を見ても分かるように、最も古い楽器の一つといっていい。
 インド最古の文献でありバラモン教の根本聖典であるブェーダを詠唱する際には、ヴィーナー(弦楽器)、ヴェーヌ(笛)、ムリダング(太鼓)が伴奏として使われていたといわれている。葦でできていたと思われるナーディも笛の一種で、死神ヤーマの怒りを鎮めるために演奏されていた。また、笛はこうした宗教儀式にとって重要であったばかりではなく、プルシャメーダ・ヤジュニャといういけにえの儀式では、笛の奏者も神への供物としていけにえにされたといわれている。インド音楽理論の記念碑的著作「サンギート・ラトナーカラ」(13世紀)の中では、著者のシャールングデーヴァは18種類の長さの異なる笛について記している。
 芸術学問の神、サラスヴァティー神の抱えるヴィーナーや、シヴァ神のもつダマル(でんでん太鼓)と同じように、インド人にとって笛は神秘的な魅力のある楽器であった。
 インドの街角や寺院の門前には、よく極彩色の神々のポートレイトが売られている。その神々の一人、クリシュナ神の絵はたいてい笛を吹く姿で描かれている。恋人ラーダーや羊飼いの女たち(ゴーピー)は、クリシュナの吹く笛にうっとり聞き入り恋心をいや増しに増しかきたてられる。神との一体化を切望してやまないラーダーにクリシュナはその不思議な笛で呼びかける。このラーダーとクリシュナにまつわるエピソードは、インド人ならだれでも知っている。女性をうっとりとさせるクリシュナの笛が、どのような音色でどのようなメロディだったのか、男性の笛吹きである筆者としては大いに興味のあるところである。
 ともあれ、このように笛は古代からよく知られ、民謡の伴奏楽器として広く使われてきたにもかかわらず、古典音楽の主奏楽器として認知されるようになったのは比較的新しい。特に北インドではごく最近の話といっていい。
 北インドの古典音楽を支えてきた人たちは、一種のエリート集団である。音楽家たちは、ヒンドゥー教徒であれば最上カーストのブラーマンがほとんどであり、イスラーム教徒ではあっても、ムガル朝時代に宮廷音楽家として有利なように上層のヒンドゥーから改宗した人たちが多い。そうした人たちは、手のこんだ楽器であるヴィーナー、シタール、サロードのような弦楽器や、声楽などを中心に演奏していた。聴衆といえば王や貴族といった支配階級である。こうした選ばれた少数の熱心な聴衆とギルド的職人芸集団によってきたインドの古典音楽が洗練され育まれてきたのである。
 このような伝統からすれば、一般民衆が民謡などの伴奏で吹く笛は、古典音楽楽器としては一段低くみなされていたと思われる。また、笛は直接口を接触させるわけで、この点でも浄不浄に厳しい社会では「尊敬すべき」楽器として取上げられなかったのかもしれない。中世から今日までの大演奏家にまつわる逸話や記録にも、バーンスリーに関する記述はほとんどない。
 近年になって、バーンスリーが北インド古典楽器=ヒンドゥスターニー音楽の主奏楽器として一般化したのは、一人の傑出した演奏家が出現したからである。パンナラール・ゴーシュ(1911-1960)である。民謡の伴奏などでは、比較的短いバーンスリーが使われていたのだが、ゴーシュは、ラーガの微妙な表現や低音を得るために非常に長い楽器を使った。約70センチの長さの彼のバーンスリーは、特にティッペリとして知られている。
 ゴーシュは、13歳のときからアラーウッディーン・ハーン(1881-1962)の下で本格的に音楽を修行した。アラーウッディーン・ハーンは、今日のヒンドゥスターニー音楽隆盛の中興の祖といってもよい人である。アラーウッディン・ハーンの下からは、息子の現代サロードの重鎮、アリー・アクバル・ハーン、娘のアンナプールナー・デーヴィー、そのアンナプールナーと結婚したシタールのラヴィ・シャンカルや、故ニキル・ベナルジーなどを始めとした多くの音楽家が輩出した。
 パンナラール・ゴーシュの演奏は死後30年を経た今日でもレコードやテープで聞くことができ、いまだに人気のある演奏家の一人である。ゴーシュは、演奏の内容もさることながら、ヒンドゥスターニー音楽におけるバーンスリーの地位を確固たるものにしたいという意味でも決して忘れられない音楽家であろう。
 さて、パンナラール・ゴーシュが人気を得てからは、バーンスリーで古典音楽を演奏する人たちが各地に現れる。それらの中で飛び抜けて一躍寵児になったのが、ハリプラサード・チャウラースィヤー(以下彼の愛称ハリジー)である。
 とはいっても、彼が北インド古典音シーンに登場したのはごく最近の話である。87年の「インディア・トゥディ」誌の記事(英文)をみると、「今から6年前ですら無名に等しかった」とある。87年の6年前ということは81年であり、ハリジーは1938年生まれであるから、彼が43歳のときにはまだ「無名」だったことになる。現在の人気からするととても信じられない話である。ヒンドゥスターニー音楽界では、伝統的な音楽家系の出身であれば、10代か20代でデビューし、華やかな演奏会で堂々と舞台を飾るものがザラだからだ。したがって多くの人々は、彼の突然といってもいい名声と、その名声に違わない演奏を聴いたとき驚いたに違いない。
 81年には「無名」だったとはいいながら、実際は、ハリジーの音楽家としてのデビューはかなり早い。既に60年代中ごろにはある程度成功したバーンスリー奏者だった。彼は音楽を職業とする家系とはおよそかけ離れた家に生まれたが、幼少の頃から「神の楽器」バーンスリーに親しみ、早くからプロとして活動していた。しかし、ヒンドゥスターニー音楽のスターとして飛躍するには、跳躍の土台が必要であった。その土台は、先に挙げたアンナプールナー・デーヴィーとの出会いである。
 ハリジーの父は、ガンジス川とジャムナー河の合流地として有名な、アラーハーバードのレスラーであった。その父は「こんなものをやっちゃいかん、レスリングの練習をしろ」とよくいっていたそうである。だから彼は、当時父のいうことを素直に聞いていれば、今頃はレスラーであったはずである。しかし彼は、レスリングより音楽がずっと好きだった。「ある時、音楽を練習したいというと、父は烈火の如くおこりだした。父は、音楽は堕落だと思っていたんだ。今でも覚えているが、部屋に鍵をかけてこっそり笛を練習していると、たちまち父がやってきて、なにか音楽みたいなものが聞こえていたが、あれは何だったのか、と聞いた。わたしは、口笛ですと答えた。父は、息子が嘘をついたことにもっと腹を立てたんだと思う。父に思いっきりひっぱたかれたよ」
 ハリジーは、少年時代の思い出をこんなふうに語る。
 少年時代にハリジーがよく親しんでいたのは、インドのポピュラー音楽である映画音楽であった。たまにアラーウッディーン・ハーンなどの古典音楽もラジオで聞いていて、なんとかバーンスリーで再現しようと自力で練習もしていた。
 音楽の思い断ちがたいハリジーは、上の学校へ進むのを止め、プロのバーンスリー奏者となる。父には、書記として雇われたと偽り、オリッサ州カタックのオール・インディア・ラジオに専属演奏家として就職するのである。数年もしないうちに、ハリジーは名も知られ、ラジオ局以外でも独学の古典音楽を演奏し始める。規則づくめのラジオ局は、1962年、局の意向とは次第に外れてきたハリジーの演奏活動に対する罰として彼をボンベのラジオ局に転勤させる。しかし、その罰が実は彼に一大飛躍のチャンスを与えることになった。
 彼の演奏を聞いたボンベイの映画監督たちはこぞって彼に映画音楽の仕事を頼み、彼はその方面の音楽家として有名になっていく。
 しかし、その名声は、どんどんと消費される商品としての音楽の生産者のそれである。「神の楽器」の演奏者であったハリジーは、そうした状態に甘んじることができなかった。そこで、グル(先生)のグルとしてあらゆる音楽家の尊敬を受けていたアンナプールナー・デーヴィーの門を叩く。しかし彼女は、非常に厳格な師であり、だれでも入門できるとは限らなかった。2年間ノックし続けた。そしてある日、わかった。まずあなたの演奏を聞かせてくれ、とハリジーに告げる。
 ハリジーの演奏を聞いたアンナプールナー・デーヴィーはこういったという。
「あなたは、これまで修得したものを全部忘れて、一から始めなければならない」
 それまでのキャリアを考えると、一から始めることは大変なことである。まず彼は、それまでのバーンスリーの持ち手を右から左に代えた。ハリジーは筆者にいったことがある。「馬鹿なことだった。あれで3年は無駄にしたよ」
 アンナプールナーのレッスンは非常に厳格、厳密であった。ハリジーは、早朝4時から深夜まで練習するという日々が続いた。「本当の意味での音楽修業というものをそのときに知った。習い始めて4年ほどたったとき、それまで知らなかった音楽の深さ、力を感じた。自分に無限の『神』のパワーを感じるようになった」
 音楽の深さを究めるには限りがないように、師は完全を望み、それ以外の妥協は拒む。であるからこそ彼女はグルである。しかしハリジーは、こうも感じていた。「伝統や、師の教えるものは根本だ。しかし、演奏家は自分自身の音楽も作らなければならない。わたしはあらゆるタイプの音楽が好きなのだ。道としての音楽も大事だが、音楽は同時に人を喜ばせるものでもある。師の要求には聴衆の数は問題にならないが、完璧だと思われているアミール・ハーンの演奏会に、聴衆がたった25人というのは悲しすぎる」
 師の集中訓練を離れたハリジーは、積極的に公で演奏を開始する。このとき、師から学んだ古典音楽の深さ、伝統の力と、映画音楽や民謡の演奏で培かった「人を喜ばせる術」を兼ねそなえた希代のバーンスリー奏者が誕生したのである。これが、80年代初期であり、それ以降、ハリジーの人気は飛躍的に拡大する。
 ハリジーの功績は、インドにおいて古典音楽層を広げたと同時に、インド音楽が単なる一地域のいわゆる民族音楽ではなく、今日の世界におけるコンテンポラリー音楽であることを世界の人々に認識させたことである。
 かつてラヴィ・シャンカルは、「インドのシタール奏者」としてインド音楽を世界の音楽シーンに登場させた。そして今、ハリジーは「世界の音楽家」として国境を越えて飛び回っている。クリシュナ神の愛の呼びかけの対象はゴーピーたちであったが、現代のクリシュナ、ハリジーは世界のあらゆる人に愛を呼びかけているのである。