ラヴィ・シャンカルに聞く
以下のラヴィ・シャンカルに対するインタビューは、1982年にバナーラスの自宅に直接訪れて行ったものです。情報としては古いですが、音楽に対する彼の考え方などには、現在でも通用する内容を含んでいると思われるので、そのまま掲載します。なお、このインタビューは、1983年の月刊「サヴィー」に掲載されました。
わたしと配偶者が、バナーラス郊外の広大な邸宅を最初に訪れたときは、彼は風邪をひいて体調を崩していました。弟子のディーパク・チョードリーに案内された彼の寝室で最初の面会をしたのですが、そのときはベッドに横たわってわれわれにこんなことをいってました。
「ちょっと、体調が悪くて申し訳ない。ところで、君たちは日本のどこからきたのかね」
「神戸です」
「あっ、そう。コーベ・ビーフの有名なところだよね」
ヒンドゥー教徒である彼が、コーベ・ビーフなどというのも変ですが、彼一流のサービス精神だったのかも知れませんし、タブーなんて気にしないでばんばん食べていたのかも知れません。
2回目に訪れて記録したものが以下のインタビューです。われわれの英語があまりにたどたどしかったので、彼は質問を類推し先回りしてどんどん質問に答えてくれたのでありました。そのときめていた大きなダイヤモンドの指輪と、背の小ささが印象に残っています。
インタビュー
● 本拠地はアメリカで、インドには冬の間3、4カ月だけ帰国するというのがインド音楽の巨匠ラヴィ・シャンカルのこれまでの活動パターンだった。60年代、反体制・反権力の思想を長髪に象徴させてフラワーチルドレンたちがインドへと旅立ち始めた時代。ラヴィ・シャンカルはまさに時代の寵児であった。当時を頂点に、彼はインド国内よりも国外での活動に置いて際だっていた。その彼がここにきて「今年の暮れ以降はインドでの活動を中心にする」と180度転換とも思える方針を明らかにした。
パリで過ごした少年時代。1956年のアメリカでのデビュー。ラヴィ・シャンカルの西欧体験は60年代に先立ち、意外にに早く始まっている。インド音楽を世界に紹介した彼の功績は誰もが認めるところだが、西洋での音楽活動に彼自身はかつてその著書の中で伝導(ミッション、あるいは使命)という言葉を使った。
伝道者は今なぜ新天地を引き上げるのか? それを聞きたくて忙しい日程の合間を縫い1時間のインタビューをした。白髪が目立ち、遠近両用メガネをかけている。薬指に大きなダイヤの指輪。素顔のラヴィ・シャンカルは舞台で見せる厳しい表情はなく、穏やかな紳士だった。-----インドに帰ってこられると聞きましたが・・・。
過去26年間、私は多くのことを同時にやってきた。 公演旅行、作曲、弟子への教授・・・この2、3年は作曲活動で特に忙しかったが(シタールとオーケストラのための協奏曲(No.2『ラーガマーラー』、『ガーンディー』の映画音楽など)インドにいるよりアメリカ、ヨーロッパにいる時間の方が長いというのはこれまでと同じだ。このパターンを変えたい。来年からはインドに少なくとも7、8カ月は落ちつくつもりだ。ベースはデリーになるだろう。
----今、アメリカから引き上げる気になったのは、なぜですか。
公演旅行で忙しく、弟子を教える十分な時間がとれなかった。そして、アメリカでは、才能があってしかもまじめな、非常に少数の生徒を除けば、残りの生徒を教えることは時間のむだだと、やればやるほど分かったから。
-----ロサンゼルスに学校を開いたり、60年代以降アメリカ中心の活動が長かったですが・・・。
あれは、Happy periodだ。若い連中がインド音楽にとても興味を持ち、みんなが私に学校を始めるよう頼んできた。私自身、そんな彼らに触発されるところがあって学校を作った。多くの生徒がすぐさま集まった。
しかし、スタート後、少し幻滅を味わった。まじめで、やる気のあるものは5パーセントもいない。あとの95パーセントはドラッグのついでに音楽をやるというふうだった。いつもLSDやハシシのストーン状態で、肩にシタールを担いでやってくる。そして導師(グル)の前に足を投げ出して座る。タバコをふかす。マナーがなってなかった。形式的なことを問題にするつもりはないが、あれはグルに対しても音楽に対しても侮辱だよ。だからとても基本的なところで難しさを感じた。3年半くらいで学校は閉じた。-----そのまじめな5パーセントの生徒は今も厳格なものを守って続けているのですか。
中には才能のあるものもいれば、ないものもいた。才能のあるものもまた別の問題をかかえていた。たとえば忍耐がない。少し弾けるようになっても、、食うに困ってインド料理店のシタール弾きになったり、大学に戻って論文を書き博士号をとる道を選んだりした。外国人の弟子はたくさんいたが、今も続けているものは数えるほどもいないというのが実際だ。
----しかし、あなたは長い間、外国で流行の頂点にいた。それは幸せなことでしたか。
たしかに有名になったし、お金も得た。スーパースターダムを手にした。でも正直いって幸せじゃなかった。私はちっとも幸せではなかったよ。いつも闘っていた、抗議していた。何年もの間スーパースターで、億万長者だったが私自身はそれに迎合しなかった、むしろそれを切ってきた。学校でもコンサートでも、タバコを吸うな、ドラッグを止めてくれ、きちんと座れ、アレをするな、コレをするなってうるさく注意することによってね。連中はうるさいなあ、と思っていたはずだよ。
ここ数年というもの、私はホールで演奏したことがない。コンサートはいつも大競技場。2万人、2万5千人もの大観衆。そして「ラヴィ・シャンカル!!スーパースター!!」「ヘイ、ラヴィー」ミーハーだよ。そして全員飛んじゃって、おしまい、凧みたいに。彼らは音楽を理解しようとはしないんだ。とてもイヤだった。そこから逃げ出さなかったのは、一つにはエージェンシーやマネージャーの契約によって縛られていたから。他方では、状況を変えよう、変えようといつも考え、試みていた。
ビールやコーラを飲んだり、吸ったり、裸で抱き合っている連中を見ると(彼らはコンサート会場でときどき奇妙なことをするのだよ)「われわれの演奏する音楽は宗教に深く根ざした厳粛な音楽だ。精神を集中し、いい心の状態でないと演奏できない」と抗議した。「私が混乱して不出来な演奏でも、君たちは関係ない、ハッピーになれりゃいいんだ、というかも知れない。しかし、神を冒涜するような聴衆の前では、演奏できない。インド音楽の最高の魂を私は君たちに与えたいのだ」と演奏の前に舞台で彼らに訴えた。そんなふうにコンサートをはじめるのが毎回のことだった。
私のいうところを分かってくれた若い連中ももちろんいた。彼らは、インドの古典音楽のシリアスな面をよく理解して、今もずっと聴きにきてくれている。大多数はしかしカッコいいポップ音楽として考えていなかった。全くクレージーだった。私はジレンマに陥って逃げ出したいと思ったが、私以外には誰も彼らを批判する人間がいない、と考え直した。幸運にも彼らは私を愛していたし、私のしゃべることに耳を傾けたからね。私は愛情込めて「音楽を冒涜するようなことはしないで」と彼らに語り続けたというわけだ。
その結果-----。少なくとも真実のところを彼らに示したつもりだった。ところが彼らは私のやり方が好きじゃなかったのだ。もう次からは私のコンサートに来なくなった(笑)。私のした抗議は正しかったと思うよ。でも、それをしなかったなら私の今の地位は違ったものになっていたかも知れない。----今のアメリカの若い世代は、60年代のヒッピー世代と変わったと思いますか?
当時、ドラッグは彼らの生き方や宗教、精神的な覚醒、芸術など諸々の問題と絡んでいた。LSDの作用でシヴァ(ヒンドゥー教3大神の一人)やキリストをとらえた気になって、まがいもののそれを彼らは真実だと思い違いしていた。ドラッグの力を借りて精神的な高み、音楽や創造性の高みを手に入れようとしていた。その高みは偽物だってことに気がつかなかった。だから危険だった。彼らはまだ成熟していなかったのだ。
今はどうかといえば、ドラッグをやっている人間は昔と同じくらいいる。数はちっとも減っていない。ただ違いは、今はドラッグが宗教や芸術とゴッチャになったり、仏教的悟り(ニルヴァーナ)のためにやるという口実にはなっていないことだ。今はみんな、ただハイになるため、楽しみでやっている。-----ところでタゴールも「インドの音楽は日常の経験よりも、宗教によって解釈されるような経験にはるかに深い関わりをもつ」というようなことをいっている。宗教を異にする西洋人や日本人にはインド音楽を理解することは無理なのでしょうか。
われわれの音楽の起源は神への讃歌だ。もともと宗教的なところに生まれ、今も宗教的性格を色濃く残している。歌はどれもヒンドゥーの神々を歌っている。
どの程度、音楽を理解したいかによるが、本当に勉強するつもりならこの国の雰囲気に浸り、宗教的・精神的背景を知らないとやっぱりダメだ。何もヒンドゥー教徒にならないといけないとはいってないよ。-----あなた自身、演奏するとき、宗教的なことをイメージしているのですか?
個人的なことだが、私は私の信仰を持っている。それは私の音楽に現れているかも知れない。しかしより肝心なことは、われわれの音楽が宗教や精神的知覚に根ざしていること。感覚的な、エロティックな表現であってもやはり宗教と深くつながっている。それがインド音楽の独自性だ。
-----それでは今後、インドに帰ってなにをしたいとかんがえているのですか?
これまで忙しすぎて弟子を教える時間がなかったから、弟子の指導に力を入れたい。私は本当に才能を持った弟子を見いだしたいのだ。才能があって、音楽に身を捧げることのできる人。私は教えたいこと、与えたいことがいっぱいある。だから才能もない人間に音楽のABCから教授するんじゃなく、もっと先の、進んだことを教えたい。そのほかに私自身の創造活動。とりあえず12月にデリーでやる兄ウダイ・シャンカルのメモリアル・フェスティバルが大きなプロジェクトだ。その後は音楽、ダンス、ドラマ、影絵芝居などを駆使したマルチメディアのステージを計画している。
-----日本での公演予定は?
決まっていないが、来年あたり行きたいと思っている。ただ、エージェンシーはシンフォニーとのコンツェルトを希望しているが私はそれはしたくない。ソロ公演でないとイヤなんだ。
---------西洋化しすぎている、商業主義的だという批判がいつもついて回ったにしろ、今もインド国内で彼の音楽家としての人気は圧倒的だ。他の公演に比べ、うんと高い入場料をとるにもかかわらず、彼ほど客を集める演奏家はいないだろう。この冬もほぼ2カ月で広いインドの大都市間を飛び回り、10数回のコンサートをこなし、ヨーロッパを回ってアメリカに戻った。話題は義兄アリー・アクバール・ハーンのサロードとの競演(サロードは16本の共鳴弦をもつアフガン起源の弦楽器。アリー・アクバール・ハーンはサロードの第一人者で、今もアメリカに学校をもっている)。タブラー(伴奏の太鼓)は長年の相棒であるアラ・ラカと、アラ・ラカの息子ザキール・フセインの二人が叩く。都合4人舞台だった。この4人のステージは昨年、ニューヨークのカーネギーホール他、その都度話題を呼んだもの。
さて、その演奏内容だが、ハードスケジュールがたたったのだろうか、風邪で直前まで寝込んでいたというバナーラスのコンサートでのラヴィ・シャンカル。舞台に上がればさすがに貫禄で聴かせ、力演ぶりは伝わってきたが、呼び物の競演は疲れ気味でもう一つ物足りなかったというのが正直な感想。ジャーナリズムが最も取り上げたのは、3人の大御所連にひとり交じって奮闘した、1世代若いザキールの新鮮さだった。
ラヴィ・シャンカルももう63歳。音楽を通して東洋と西洋との橋渡し、伝導(ミッション)を果たした今、インドにリターンするのは、今度は彼自身の国で次の若い世代への橋渡しを考えているのだろうか。一方では、3000年の歴史を持ち「生きた伝統」といわれるインド音楽。師から弟子へと直々に伝えられてきたこの文化遺産は今や、社会の近代化の波による変化を避け得ないところにいる。ラヴィ・シャンカルのさらなる活躍が期待される。