『インド音楽序説』 田中多佳子/『東洋音楽研究』第六〇号書評

 日本語で読むことのできるインド音楽概説書の不在を、久々に埋めるものが登場した。本書は、インドの音楽学者B.C.デーヴァ Bigamudre Chaitanya Deva 著 An Introduction to Indian Music の日本語訳である。初版は一九七三年にインド政府情報放送省から出され、一九八○年に改訂されている。
 著者は、一九二二年、インド南部カルナータカ州都バンガロールに生まれ、インド音楽を対象とする音響心理学的研究の他、楽器やインド音楽全般に関する啓蒙書など、多数の著作を残した。プネー大学に提出された博士論文の要旨がベルリン大学の音響学の雑誌に掲載され、インドにおける音楽学会ならびに音響学会の設立にも関わるなど、インドを代表する音楽学者であったと同時に、ヒンドゥスターニー音楽の声楽家でもあったという。
 訳者の中川博志氏は、自ら「一介の笛吹き」(「訳者あとがき」)と謙遜するように、いわゆる音楽学者ではない。が、三年間のインド留学後、バーンスリー奏者としての演奏活動や講演、インド音楽演奏会の企画など、一貫して日本におけるインド音楽の啓蒙活動に尽力して来られた。文化的背景に関する知識も音楽の実践面での知識も豊富で、訳者として不足なく、本書は翻訳であることを忘れさせるほど読み易いものとなっている。
 原題から明らかなように、これは何か新しい事実を発表するような研究書ではない。デーヴァ自身の表現によれば、「インド音楽の包括的紹介の試み」であると同時に、「ある程度分析的でもあるので専門家も興味を抱く」(「序」)書であるという。
 訳書の構成は、「序/第二版によせて/訳者まえがき/第一章はじめに/第二章インド音楽の歴史/第三章感情と音楽-インドの音楽美学/第四章民謡と伝統音楽/第五章楽器/第六章メロディーの基本/第七章ラーガの生成と分類/第八章リズム/第九章演奏形式/第十章偉大な音楽家たち/付録/訳者あとがき/索引」となっている。
 ただし、「訳者まえがき」に述べられているように、章の順序は原著のそれと大幅に変えられている。原著では、前半が音楽理論、後半が社会的歴史的背景、すなわち各論から次第に全体へと向かうように配列されていたのに対し、本訳書では、全体の鳥瞰を得るのに好都合な第二章「音楽の歴史」(原著の表現は「当時と現在」)を「はじめに」の次に配したほか、全体として概論から各論に向かう方向に改められている。確かにこの方がインド音楽になじみの薄い読者には親しみやすいであろう。
 さらに、巻末には、原著付録の「より詳しく知るための推薦文献」の他、「参考文献リストおよび簡単な内容紹介」、「南アジア関係国内盤視聴覚資料一覧」、またラーガやターラの一覧など、原著には見られなかった便利な付録が加えられている。
 ただ一つの不満は、原著に掲載されていた貴重な写真やイラストが一切除かれ、全く異なる現代のものが掲載されている点である。確かに画質は格段に良くなったものの、これでは原著者の配慮が生きない。特に「偉大な音楽家たち」の章で紹介されるターンセーンやバートカンデーなど歴史上の人物の、貴重なイラストや写真が無いのは寂しい。
 さて、本書のように、ある程度専門的な内容をもつインド音楽の概説書の類は、英語に限ってみても、これまで実に多く書かれてきた。そこで扱われている項目は、ラーガを中心とする旋律理論や楽曲構成、楽器、古典音楽の歴史と有名な音楽家たち、ターラを中心とするリズム的理論などほぼ共通しており、いずれも内容的には大同小異に見える。本書も内容的にはその典型的な様相を呈しているが、他に比べ、コンパクトに整理され、図表が多く、参考文献やディスコグラフィーといった付録が充実しているといった点は評価できる。確かに信頼のおけるものの一つには違いないが、他をおいてまず本書が翻訳されねばならないような突出した優位性はあまり感じられない。
 しかし、私はまず、本書において、インド音楽概説書の類を日本語に翻訳するという努力が誠実な形で実現されたこと自体を、高く評価したい。
 近年、わが国では、中学校の学習指導要領に「アジアの音楽」が含まれるなど、教育の場をはじめ一般の愛好者に向けたインド音楽の入門・概説書の必要性は、ますます高まりつつあるように思われる。にもかかわらず、冒頭で述べたように、日本語文献には見るべきものがなかった。数少ない邦訳としては、第二次大戦下に出版された『印度の音楽』(一九四四年)(1)や『インドの音楽』(一九七六年)(2)などがあるが、すでに絶版となって久しい。有名なシタール奏者ラビ・シャンカルの著で小泉文夫訳の『わが人生わが音楽』(一九七二年)(3)は、概説書とはいわないまでもインド音楽を学ぶに実用性の高い書であるが、やはり今は入手できない。まして、日本人書き下ろしによる概説書などは望むべくもないのが現状である。必要性が叫ばれながらも、このような空白が放置されてきた最大の理由は、その翻訳の難しさにあると思う。
 多くの概説書は、書き手と対象とする読者という観点から次の三つに大別されよう。一は、植民地時代の宗主国イギリスを始めとする西欧からの知識層が、異文化の一部としてインド音楽を西欧に紹介する目的で書いたもの(4)、二は、インドの演奏家や研究者が、インド古典音楽を学ぶ学生や愛好家(外国人も含む)らに向けて要点を示した、一種の教科書の様なもの(5)、三は、インド音楽に関する専門的な知識と豊富な経験をもつ欧米の研究者が、主としてインド外の研究者や愛好家を対象として書いたもの(6)である。一と三は、インド文化の外部者が外部者に向けて、あるいはそれに準じる形で書かれたものであるのに対し、本書も含まれる二は、内部者が内部者または外部者に向けて書いたものと見なされる。
 両者の最大の違いは、読者に要求される前提知識の量ではないだろうか。二では、自明の事柄として説明されない部分が多いため、訳出には文化および言語体系に関する知識が必要である。英語という体裁をとってはいるが、サンスクリット系の一般用語や専門用語が頻繁に現れ、それを日本語の体裁をとったカタカナ表記の羅列にしたところで意味をなさないという場合が多い。その点、本書では、本文中や訳注でかなりの言葉が補われたり、資料が付されるなど細やかな配慮が見られ、比較的理解のしやすいものとなっている。 訳者は翻訳の対象として本書を選んだ理由には触れていないが、デーヴァは、本書を出版した翌年に、これと性格も構成もよく似た『インドの音楽 Indian Music』を著している。原著者自身によれば、本書はどちらかといえば海外の読者を想定し各部分を分けて書き、他方はインドの読者を想定して連続的に書いた(7)というから、選択は適当だったと言えよう。
 和訳にあたり最も困難なのは表記法の問題である。対象が地域的・時代的に限定されている場合には、しかるべき言語体系を特定し、その原則に依拠した発音や表記を考えることができる。しかし、概説書となれば、対象が必然的に時間的にも空間的にも広範囲に及ぶため、様々な言語の語彙の混在が避けられない。原著者のローマ字表記は、一貫性を欠いた曖昧なものである場合が多いが、どの言語体系に属する単語とみなすのが適当なのかを瞬時に判断し得るインドの人々にはさほどの問題ではない。しかし、外部者たる我々ができるだけ現地発音に近い形でカタカナに転写しようとする場合には、語源的に同じ用語であっても依拠する言語体系によって発音や表記が大きく異なるため、まずその特定を行わねばならない。そしてそれは非常に厄介な作業である。
 例えば、サンスクリット語で一種のリズム周期を示す用語「eka tala (エーカ・ターラ)」を現地発音に近い形で表記しようとすれば、ヒンディー語では「エーク・タール」、ベンガーリー語では「エクタル」、タミル語では「エーカ・ターラム」となる。文脈に則していずれかを選択せねばならない。人名の表記すらその人物の出自の特定なしにはできない。一方で、タクルをタゴールと呼ぶような慣用も無視できない。このような作業を個別的に行った結果、全体として矛盾が生じないような表記法の原則を貫くことは不可能である。それは、多くの言語や音楽の専門家の共同で行われた『ニュー・グローブ音楽大事典』(講談社、一九九三年)の「インド」の項目の翻訳が、一応の原則を立てながら多くの矛盾や例外を含んでいることにも明らかである。
 従って、このような難事業に一人で取り組まれた中川氏の苦労は、並大抵のものではなかったはずである。自ら専門家ではないと宣言して多くの研究者の協力を仰ぎながら、最終的な判断は訳者一人でなされているから、それなりの一貫性がある。索引は特に労作。原著ではわずか二頁しかなかったが拡大されて二十頁を越え、原綴、訳者補足によるローマ字表記、カナ表記が併記されている。細部に関しては引き続き検討を行ってゆく必要があろうが、日本語によるインド音楽書の一つの重要な規範が生まれたと言えよう。

[注]

1 ファイズィー・ラハミン著、津川主一訳、東洋社刊。原著は、Atiya Begum Fyzee-Rahamin, The Music of India (London: Luzac & Co.,1925)。
2 H.A.ポプレイ著、関鼎訳、音楽之友社刊。原著はラハミンのものより前に書かれている。注5参照。
3 音楽之友社刊。原著は、Ravi Shankar, My Life My Music( Vikas,1968)
4 一八世紀、カルカッタに裁判官として赴任したイギリス人W.ジョーンズの Music of India(1793)、宣教師ポプレイの The Music of India(1921)など。
5 J.N.ジョーシー Understanding Indian Classical Music(1977)、D.シング Invitation to Indian Music(1978)、R.シャンカルの Learning Indian Music(1979)ほか多数。
6 イギリスの研究者P.ホルロイドの The Music of India(1972)、アメリカの民族音楽学者B.C.の Music in India: The Classical Traditions(1979 )など。
7 Indian Music ( New Delhi: Indian Council for Cultural Relations, 1974) p.x.