サケとイクラのつぶやき

イクラ:「わたしたちは、長い間、定番ごはんの友業界に単独で一定の地位を築いてまいりましたが、あなたは、朝食おかず業界の不動の地位を保持していらっしゃいます。なにか、特別なヒケツというものがおありなんでしょうか」
サケ:「わたしの水子たちよ。なぜそのような質問をするのか。ひょっとして、定番ごはんの友業界からさらにわれわれの朝食おかず業界に進出しようという考えなのか。朝食おかず業界というのは、とても参入が難しいのだ。肉や野菜もずっとその機会を狙っているが、広範な支持を得るところまではいっていない。しいていえば、梅干しや漬け物や海苔はそれなりの地位は獲得したとはいえ、しょせん添え物。まして、生まれてもいない未熟者ではとてもつとまらないんだよ」
イクラ:「わたしたちはそのようなことは考えておりません。だいいち、わたしたちはちょっとねばつくし、脂肪分もコレステロールも高いので、すがすがしい朝食には不向きだろうと自覚しています。ただ、できればあなたの朝食おかず業界での地位のように、定番ごはんの友業界で不動のポジションを得られないものかと、ふと思っただけなのです」
サケ:「ナンバーワンになることを考えてはいけない。わたしはたしかに、下の段にいるくさい納豆との激烈な地位争いはあるとはいえ、朝食おかず業界ではナンバーワンといってもいい。しかし、そのためにどれだけわれわれの仲間が殺されてきたか。もし、お前が定番ごはんの友業界のナンバーワンにでもなってしまうと、われわれは生まれてくることすらできなくなるのだ。だいいちお前たちは、醤油や出しの協力を得て初めてかちとった地位ではないか。わたしはほんのちょっとだけ塩の助けを借りているだけだ。そんなふうに考えないで、隣のタッパーに入ったメンタイコのことも考えたらどうだ。彼らだって同じ魚卵界の仲間なのに、トウガラシをまぶしつけられて真っ赤になっても不平ひとついわないではないか。彼らと仲良くすることをすこしは考えなさい。もっとも、タラなどという下等な魚は、われわれの生活圏から消えてもどうということはないが」
イクラ:「分かりました。もうそのようなことは考えないようにします。品のないメンタイコやタラコと仲良くするのはちょっと難しいけど。彼らはごはんの友といっても、わたしたちみたいにお寿司には使ってもらえないと悔しがっていましたし、いい気味だわ、ひひひひ。
 ところで、わたしは、まだ一度も行ったことがない川をとても懐かしく思うのですが、どうしてなんでしょうか。そこには、なにか存在の底から湧き出るような快感が待っているような気もするのですが」
サケ:「ようやくお前も気がついたか。われわれは、お前のいう、その『存在の底から湧き出るような快感』がすべてなんだよ。
 もはやお前は体験することはないが、父としてわたしの人生をお前に語ってみても害はあるまい。
 わたしは斜里川の上流で冬に向かうころ生まれた。震えるほど気持ちのよい香りの水だったなあ。忘れられない香りだった。ちゃんとしたからだになる前の2ヶ月間ほどは、その気持ちのよい香りをめいっぱいかいでとても幸福だった。川底の砂利もいい匂いだった」
イクラ:「お父さんのお父さんとお母さんはそのときどうしてたの?」
サケ:「父親は、遡上や他のオスとの戦い、いつ終わるとも知れない射精の絶頂感でエネルギーを使い果たして死んでいった」
イクラ:「死んじゃったんだ。かわいそうだね」
サケ:「かわいそうじゃないんだ。われわれは元々そうなっておるんだ。だから、わたしの父親も最高に幸福だったということだ」
イクラ:「ふうん。で、さっき言ってたシャセイってなに? ゼッチョーカンてなんですか?」
サケ:「お前がそこで出会うことになっていた命の源を、お母さんから出てきたお前たちにふりかけることだよ。そうするとお前たちはちゃんとしたからだをもった魚になるんだ。絶頂感というのは、ひひひ、お前のいう『存在の底から湧き出るような快感』の何万倍も気持ちのいい感じだ。もっとも、わたしはそれを体験できなかったわけだが。でも、どんなのものかは分かっている。
 人間も似たようなことしているが、ありゃあままごとだ。年がら年中やっているので、ほんの数秒しか絶頂感をもてないんだ。かわいそうといえばかわいそうなもんだ。人生でたった一回、何時間も続く絶頂感を味わって死ぬという幸福をもてないなんて。
 母親は、わたしを産んで2週間ほどして死んだ。父親同様、快楽死といっていいほど幸せそうな顔をしていた。苦労して遡ってきたかいがあったよ、と最後にわたしに言ってくれたよ。
イクラ:「ふうん。じゃあ、わたしもそれを味わえたんですね。くやしいなあ。人間の定番ごはんの友業界ナンバーワンになりたい、なんて思った自分が恥ずかしい。だって、そのゼッチョーカンの方が断然よさそうですもんね。ね、ね、その続きは?」
サケ:「わたしが産まれたのは浅い川でなあ、見上げると薄い氷がキラキラしていた。その氷が融け始めると、なんだかからだがむずむずしてきて動きたくなった。温い水がどうにも肌にあわないんだ、われわれは。あのいい香りが薄まるんだよ。
 それが長い旅の始まりだった。兄弟たちも一緒だから不安はなかった。5月のある日、塩の匂いを感じた。オホーツクの海に入ったのだ。それからはずっと移動の連続だった。食べるものはたくさんあって、からだもどんどん大きくなった。わたしはとくにオキアミが好きだった。アラスカ沖のオキアミは絶品だったなあ。あのころは、自由に泳いでたくさん食って、からだをどんどん大きくすることしか考えなかったもんだ。
 故郷を出てから4年くらいかな、もうこれ以上大きくなれないと感じたとき、急に斜里川の香りを強烈に思い出した。あの香りのことが頭に浮かぶと、絶頂感だ、絶頂感だ、と思わず叫んでいた。仲間もみなわたしと同じように叫んでいた。こうしてゼッチョーカンの大合唱が始まり、われわれは南を目指して泳ぎ始めた」
イクラ:「へええ。でも、広い海だったら迷っちゃうよね。よく故郷の方角がわかりましたね」
サケ:「なあに、実に簡単だよ。われわれのからだの中には衛星太陽GPSが組み込まれているからね。最初の『ゼッチョーカン』の叫び声でそれが働き出すんだ。だから自分がどこにいるかはちゃんと分かる。もちろん、多少の誤差はあるけど、たくさんの仲間がすこしずつ補正するようにできている。それに、ゼッチョーカンと何度も叫ぶと感度もどんどん上がる。だから、目指す方向に流れる海流をつかまえてしまえば楽に行き着けるんだ」
イクラ:「でも、産まれた川を探すのは、大海で針一本探すようなものでしょう? どうやって探し当てるか不思議だなあ」
サケ:「鼻だよ、鼻。沿岸に近づくころには、われわれは突き出した鼻を前にぐっと曲げて臭気探索アンテナにしてしまう。こうすると感度が格段に上がるんだ。
 斜里川の香りがチラッと鼻をかすめたときはうれしかったなあ。ぞくぞくっとした。気持ちよさで血が騒いだ。もうすこしで絶頂感だと思うといてもたってもいられなくなった。そのころにはわたしの気に入りのメスの目当てもついていたしな。ひひひひ。それで、そのいい香りの濃度が上がってきたので、故郷に近づいてきたことが分かった。本当にうれしかったよ。
 ついに、わたしは斜里川の河口にたどり着いた。もう、わくわくどきどきだ。何千という仲間のゼッチョーカンの大合唱もそこらじゅうに響いていた。そこで突然、悲劇が起きた」
イクラ:「えっ?どうしたの?」
サケ:「急にからだの自由が利かなくなったと思ったら、わたしは何千という仲間といっしょに船の甲板に投げ出されていたんだ。一生懸命飛び跳ねてもどうにもならなかった。そしてだんだん呼吸が苦しくなってきた。あたりに水がないんだからね。仲間のゼッチョーカンの叫びもささやきくらいにしか聞こえなくなった。そして、なにも聞こえなくなった。
 なんという悲惨。ああ、なんという悲劇。わたしは、長い人生の最初で最後の唯一の長時間絶頂感を味わうほんの手前で、単に人間の朝食のおかずのために仲間と共に殺されたのだ。こんなことは許されないはずだ。で、気がついたら、中川家の冷蔵庫の中でこうしてお前の隣にいるというわけだ。それにしても、くっ、くやしいー。オレはホンマにしたかったんだよ。人間め、覚えてろ。くっそー、くっそー、ええーん」
イクラ:「くっそー、くっそー、ええーん、ええーん。分かるわ、その気持ち、とっても。わたしが川を懐かしく思うのは本能なんですね。それにしても、くっそー、くっそー、ええーん、ええーん」

 ばたん。中川のオスが冷蔵庫の扉を開けていった。
「さてと、シャケイクラ丼でもたあーべよっ。あれっ、どっちも水が出てる。ま、いいか」