バナーラスは故郷のようだった (2008年3月「インド通信」掲載)

     旧友を訪ねようとソーナールプラーからバンガーリー・トーラーの狭いガリーをぶらぶらと歩いた。ガリーというのは、狭いところだと幅が1mもない石畳の道のこと。ガンガー沿いに密集して建ち並ぶ3、4階建て建物の間を縫うように走っている。建物に縁取られた空を見上げると真っ青だが、足元は薄暗い。ところどころに野菜、揚げ物、菓子、タバコなどを商う小さな店がある。子どもたちが走り回る。野菜などの入った丸いざるを頭に乗せた男が商品を連呼する。皮膚病の犬がうろつく。のっそり歩く牛をルンギー姿の男が角をつかんで押しやる。どぶ、ゴミ、線香、牛糞の混ざったガリー特有の匂い。20年前とちっとも変わりない。
     バンガーリー・トーラーを抜けゴダウリアーの広い通りに出た。土産物屋、雑貨屋、衣料品店、薬店などが連なる商店街を、人々が蟻の群れのように往来する。

    「何か、おさがしですか。お手伝いしましょうか」

     ふと後ろから日本語で話しかけられた。振り向くと、赤いセーター、ベルボトムのジーンズ姿の青年だった。背が低くがっちりした肩幅、丸い顔にだんご鼻、生真面目そうな目つきだ。

    「わたしアマンといいます。日本人の友だちたくさんいます」

     口調はゆっくりだが、発音は正確で「てにをは」もしっかりしている。そして妙に丁寧な言葉遣いだ。

    「あなたは、今、何をしていらっしゃいますか。お買い物でしょうか」

    「旧友の事務所を探そうとしているんだが、どの辺だったか忘れてしまってね」

    「キューユー?」

    「つまり、古い友だち。わたしは昔、BHUの学生としてここに住んでいたんだ」

    「そうでしたか。わたしもBHUの医学部にいたんです。ドーソーセーというんでしょうか。ですね。その友だちのお名前はなんといいますか。何をしていらっしゃる人ですか。アドレスは分かりますでしょうか」

    「へええ、君は医者なのか。日本語がうまいね」

    「いいえ。医者ではありません。卒業してません。医者の勉強は簡単ではありません。日本語は○○先生に習いました」

    「じゃあ、今は何をしているの」

    「オジサンがやってるテキスタイルの店で働いています。ところで、あなたのオトモダチのお名前は」

    「ラーケーシュ・ジョーシー。占星術師をしている。住所が分からない」

    「ああ、聞いたことあります。有名な人です。わたし連れて行ってあげましょう」

    「いや、忙しかったら悪いので、なんとか自分で探してみるよ。時間はたっぷりあるし」

    「大丈夫です。困った日本人を助けるのはわたしのデューティーです。多分、ゴールデン・テンプルのあたりの人に聞けば分かると思います。行きましょう」

     アマンはこういってそのまま雑踏へ向かって歩き出した。

     ゴールデン・テンプルというのは、屋根が純金で葺かれたヴィシュヴァナート寺院のことだ。バナーラスで最も聖なるシヴァ神を祀る寺院。バナーラス周辺の巡礼の起点として多くの信者が参拝する。周辺のゆるい坂になった迷路のような狭いガリーにはヒンドゥー神グッズを売る店がひしめき合っている。

     アマンはごちゃごちゃと商品の並ぶ店の売り子にラーケーシュの事務所を尋ね回った。訊くたびに間違った答が帰ってきてそのたびに右往左往した。1時間ほどして事務所を探し当て、彼に会うことができた。学生時代にはよくわれわれ夫婦の下宿にやってきたり、運命鑑定書の巻物を作ってもらった。彼との当時の付き合いなどを書くのがこの駄文の目的ではないので触れないでおく。

    「今、とても申し訳ないんだが、別のところで人を待たせているので30分ほどここで待つか、その辺をぶらついてきてもらえないか。ただし、あそこのポリスがいるあたりはまずいけど。ムスリムとの衝突以来あんな感じなんだ」

     抱き合って再会を祝したあとラーケーシュはこういう。

    「でしたら、わたしのオジさんの店がすぐ近くにあります。中川さん、ちょっと訪問してみませんか」

     ラーケーシュとわたしの再会の様子を見ていたアマンがいった。

    「そうだね。時間つぶしにいいねえ。ただし何も買わないけど」

    「見るだけでいいです。大丈夫です」

     薄暗くなったガリーをほんの2、3分歩くと、そのオジサンの店だった。狭い入り口だが店内はかなり広い。アマンは入り口に座っていた老人をさして「オジサンです」といったが、不機嫌そうな老人はアマンを一瞥してすぐにあごで方向を指示しただけだった。

    「飲み物はなに。コーヒー、チャイ、コーラ。チャイ。OK。おーい、チャイもってこい」

     ここからは、お定まりのインド式買い物劇場である。中年の店員が、客の買う気などまったく気にせず棚から商品を次々と取り出しては目の前に広げていく。ここまでつきあってくれたアマンに遠慮もあったのでマフラーくらいだったら買ってもいいかという気分になった。

    「マフラー。オッケー。おーい、そこの棚からマフラーとってくれ。そうそう、よしと。いいカシミアがある。日本人はよく買ってるよ。どんな色がいい。これは。だめ。よしじゃあ、こんなのは・・・。1枚いくらって。これが2000。えっ、高いって。じゃあ、これだと1500。なに、500にしてくれだって。そりゃあ無茶だ・・・アマンのトモダチだというから、2枚で800ということで。えっ、現金もカードもない。うーん」

     こんなやりとりをしているうちにラーケーシュの事務所へ行く時間になった。何も買わずに店を出たわたしにアマンがついてきた。

    「今日はいろいろありがとう。助かったよ」

    「どういたしまして。お手伝いできてよかったです。でも、あのマフラーほしいでしたら、わたしは明日あなたのホテルへ持っていきます。10時でいいですか。現金は大丈夫ですか。あっ、はい、分かりました。じゃあ、明日お会いしましょう」

     結局、アマンは次の日ホテルに来ることはなかった。あの店が身内のオジサンの経営なのかも定かではない。オジサンだという老人の表情には、家族に対するような暖かさはなかった。BHUの医学生だったというのもちょっとアヤシイ。妙に丁寧で流暢な日本語を話すアマンは、日本人を専門ターゲットとするフリーの営業マンだったのだろう。どうであれ、アマンのような客引き、畳み掛けるような商店の駆け引き、なくてもともとエネルギーなど、わたしが初めてこの町を訪れた1973年も、住んでいた80年代初期も、アマンと出会った2004年も同じように思えたことに、なぜかほっとした。きっと今も変わっていないにちがいない。バナーラスは故郷のようだった。