「弁財天」の教えてくれるもの

 天河神社が多額の負債を負ったというニュースは、わたしがインドにいるときに知った。インドの演奏会巡りをしていたときに、インド音楽の伝統も次第に細っていっているのではないかと思って少々暗い気分に陥っていたときなので、このニュースはその気分を助長した。そこで、メッセージとしてわたしの見たインドの現状をちょっと紹介したい。なぜなら、そこに横たわっている伝統や宗教性の衰退が、今やいたるところで進行しつつあり、このニュースも単なる一例であるに過ぎず、われわれはそれを乗り越えていかなければ最早どうにもならなくなるのではないかという危機感を抱いたからである。
 今年一月二十日から四十日間インドに滞在した。例によって、ボンベイのバーンスリー(インドの横笛)の先生にレッスンを受けるのが目的だった。滞在した時期は、演奏会のシーズンでもある。
 今回の演奏会巡りで強い印象を受けたことが二つある。まず聴衆が極端に少ないこと。そして大きな演奏会での演奏家の顔ぶれが毎回それほど変らず、そのほとんどは有名スターたちだったことである。
 まず聴衆の問題。千人収容の大ホールに聴衆がわずか百人前後という演奏会がほとんどであった。これはどういうことだろう。十年前にベナレスに学生として生活していたときは、どの演奏会もそれなりに活気があり、多くの人が楽しんでいた。二年前ボンベイに滞在したときも、聴衆の数は今年のように少なくはなかった。もちろん、いちがいにインド古典音楽の聴衆が減少していると判断することはできない。ボンベイにも熱心な愛好家は数多い。しかし、かつての盛況ぶりを知っているだけに、今回の印象は強かった。
 人々に、古典音楽をゆったりと聴くような時間的、精神的、物質的余裕がなくなってきたのか。そうかも知れない。インド社会は富の偏りがますます激しくなり、貧富の差は開くばかりだ。物価はかなりのスピードで上昇している。毎日食事を作ってもらっていた未亡人のジョーシー夫人によれば、インドのコシヒカリにあたる最高級バスマティ米のキロ当たりの値段は、70ルピー(約350円)。二年前の3倍以上だという。収入はしかし、決して二年前の倍にもなっていないわけだから、こうした基本生活物資の値上がりは直接生活に響いてくる。人々の生活は確実に苦しくなってきている。インド有数の大都市、ボンベイのスラムは有名で、年々、その数を増し郊外にどんどん広がっている。わずかな列車料金の値上げで暴動も起きた。にもかかわらずボンベイの中心地にはベンツが増えた。日本車も走っている。太るものは益々太り、細るものはますます細る、という富の偏在化がかなりのスピードで進行しているのである。
 このような状況の中では、一般の人にとって、一回の演奏時間が少なくとも一時間はかかり、深夜まで延々続けられる古典音楽をゆったりと聴く心のゆとりをもつことは難しいのではないか。それよりはてっとり早い娯楽がよいのかも知れない。ボンベイのレコード屋ではポップミュージックのテープや、非常に高価なCDが売れている。
 しかしこのポップな音楽の芯にあるのは古典音楽である。インド文化のコアとしての重要性は今日でも変らない。だから、古典音楽の聴衆が年々減ってきているとすれば、そのコアを支える余力がなくなりつつあるということだろう。
 どの大きなコンサートへ行っても有名スターばかり、というのも、聴衆の減少と同様考えさせられてしまう。
 音楽家というのは、その社会の文化的側面を支えていると同時に、一方、技術、表現を商品として販売する。他の商売となんら変ることがないとも考えられる。音楽家は商品である音楽を練習で磨き、聴衆はその商品を娯楽の一つとして買うわけだ。有名スターは、生来の才能、カリスマ性、環境、人一倍の修練などによってその商品価値を高めることに成功した人たちである。そういう人たちの数は、インドでも非常に少ない。最近の演奏会の主役はほとんどそうしたスターたちである。
 商品としての音楽家は、そのすべてを本人に拠っているわけではなく、かなりの部分、伝統や人々の精神的支援にも拠っている。音楽が商品として消費経済に完全に組込まれてしまうと、社会の経済サイクルの中では、高価値商品提供者である数少ないスター個人のみに富が還元される。それほど商品価値がないとみなされたり、将来商品として価値のあるものになるであろうがまだ未完成のものには還元されない。すべては「売れる」か「売れないか」で判断される。本人の努力と同時に、その豊かな伝統によってはぐくまれたスターたちが、消費社会の中で市場を独占することで本来の財産であった伝統を細らせていく。インドの代表的な文化である古典音楽の伝統も、現在の日本のようなあらゆるものがゼニカネに換算される消費社会に近づいていくに従って活力を失いつつあるように思える。
 一般にはまだまだ「精神性の故郷」だと思われているインドも、あらゆるものが商品化される社会に限りなく近づいている。本来商品価値を越えたところにあった「精神性」もこの傾向から逃れられない。天河神社の苦境が、単なる神社運営の問題に理由があったのか、上述したような大きな流れの中で不可避的だったのかを別にしても、われわれはこの流れのもたらす結果を真剣に考えなければならない時期にきていると思う。天河神社がそれを教えてくれ、弁財天の故郷インドの「精神性」の苦境がそれを教えてくれているように思う。---

サマーチャール・パトゥル第11号(1992)より