生まれて初めて見た大文字送り火

 ひょんなことから、京都名物の送り火を生まれて初めて見ることになった。
 京都を中心にシタールの演奏をやっている井上憲司さんが「送り火をみながらバーンスリーソロというのはどうですか。場所は『川口美術』という骨董屋さんなんですけど」とお誘いの電話をうけたとき、どういう場所でどんなふうに演奏するのか、まったくイメージがわかなかった。
 骨董屋と聞いて思い浮かべたのは、人がようやく通れるような店内通路の両脇に天井まで古いモノが雑然と積み上げられたたたずまい、奧の暗い一角で陰気な顔のオッサンがさもつまらなさそうに古い雑誌を眺めている、というような図である。しかも、京都である。狭い間口の玄関によその土地の人であれば見過ごしてしまうような、ひっそりと目立たない暖簾や看板があり、ふと手に取った時代物のキセルにとんでもない値札がさりげなくつけられ、ますます暗い奧のどん詰まりに、商売なんてぜーんぜん関心ないもんねという不機嫌な顔をした店主がその実するどく客を観察しているような店がまず頭に浮かんだ。老舗であればあるほど、儲かっていればいるほど店構えと店主の態度が地味になる。これがわたしの京都のイメージなのだ。井上さんはさらに「10人か20人ほどのお得意さんを招いた場所で、室内を暗くして演奏するんすよ」などというものだから、ますますアヤシイ、と思った。

京阪出町柳駅のあたりは送り火の客でいっぱいだった

 当日の8月16日の夕方、京阪出町柳駅のあたりは送り火の客でいっぱいだった。川端通の歩道も、川合橋の両側も見物客で埋まり、警官たちが人の流れを整理していた。高野川と加茂川の合流する河原には、気の早い人たちが敷物にすわって待機していた。しかし、川合橋を渡り下鴨神社に向かって右に折れると、とたんにひっそりとしている。川口すみれさんから送っていただいた地図を見ながら、京都的地味しもた屋風骨董屋を探したが、それらしい建物は見あたらない。かわりに、表のシャッターのおりた真新しいコンクリート2階建ての建物が見え、「川口美術」と小さく書いた標識のところにインタホンがあった。ボタンを押すと、シャッターが開き、顔の小さなかわいい女性が現れた。彼女がすみれさんである。
 1階の店内には、鉄縁で補強した焦げ茶色の家具や飾り棚、白い陶磁器が点々と配置してあった。品数がおもったよりも少ないので、いわゆる普通の骨董屋のように、古いモンはなんでも集めるのよね、という店ではないようだ。すみれさんはわたしを2階に案内し、ここでやっていただくんですが、舞台はあれでいいですかと、奧の一段高くなった場所を示した。その台に座って正面をみると、全面グラスウォールのむこうに大文字がちょうど中央に見えた。送り火の山腹が中央にくる大きな額縁のようである。大文字に向かって折り畳み椅子が10脚ほどおかれた室内はそれほど広くない。20人も入ればいっぱいになる程度である。それにしても、広くない間口なので視界がおおきく広がるわけではないが、表からは想像がつかない展望である。グラスウォールの外壁のすぐ側が高野川になっているので、眺望を邪魔する建物がない。
 7時過ぎにぼちぼちとお客さんがやってきた。8時前には、着座した10人ほどのお客に、店主である川口さんと娘であるすみれさんが、ワインや発泡酒、カナッペなどのつまみをすすめ、静かに点火を待つ。わたしは、室内の照明が消されたのを合図に奧の仮ステージに座って演奏した。当日はわたし一人なので、電気タンブーラーをバックにフワワフワワと笛を吹く。
 吹きながら正面を見ると、招待客たちの黒い後ろ姿の向こうに「大」の文字が暗い夜空にくっきりと浮かび上がった。そして、あっけないほど再び暗くなった。わたしは、少なくとも1時間くらいは燃えているのだろうと思っていたので、本当にあっけない感じだ。しかも、最良の場所でみているにもかかわらず、文字の大きさが意外に小さい。絵はがきやテレビでしか知らなかったわたしは、もっと、バーンと大きく目に飛び込んでくるものと思いこんでいたのである。

社会資産としてのソフトウェアー

 1年に一回、しかもたった20分ほどの送り火を見るためにどれほどたくさんの人々が京都にあつまることか。京都は、寺社の多い街のたたずまいもそうだが、社会資産としてのソフトウェアーもたくさんあるのだなあ、と笛を吹きながら思うのでありました。京都ホテルや京都駅の高層化に対する根強い反発は、こうした社会資産を守る意識のためなのだ、と納得がいく。土地の有効利用化効率化のため、都市の建物は高層化が進んでいるが、効率性によって得られるよりもずっと価値の高い社会資産をもつ京都にはそれらはむしろ障害になる。
 客たちが帰った後、川口店主とすみれさんの話を聞く。代々続く老舗とばかり思っていたが、この店は川口さんが脱サラして始めたのでまだ新しい。主に韓国に出かけて古い家具や陶磁器などを仕入れ、ぼちぼちやっているのだという。「セゾン系ホテルの役員だった頃に比べると収入はぐんと減ったが、今は自由で本当に楽しい」と語る川口さんは、バリバリのサラリーマンだったころをとても想像できないほど穏やかで満ち足りた表情をしている。東京の六本木のWAVEに勤めていたすみれさんは、京都はやっぱり東京よりも落ちきます、といっていた。WAVEは、わたしの制作したCDを扱ってもらった関係で、坂下さんという担当者と連絡をとりあっていたが、すみれさんも当然彼のことはしっていた。ほんまに世間は狭く、どこにいても変なことはできないものなのです。そのすみれさんがホームページを開設した、何か書いて、というメールをいただいたので、このようなよれよれの文を書いてみたのでありました。

サマーチャール・パトゥル第22号(1997)より