ディープ讃岐裏うどん文化探訪の旅

 かねがね、高松のただならぬうどん文化には一目を置いてきましたが、今回、讃岐人のうどん偏愛を垣間見て、あらためてその奥深さを感じました。
 配偶者は、コープこうべ発行の雑誌『ステーション』で「小さな旅」というコーナーを担当しています。彼女は、取材地選定にいつも悩んでいるのですが、「日帰りで讃岐うどんの実態について取材する、というのはどうか」というわたしの助言に飛びついたのでした。以前、高松に演奏に行ったとき、うどんの費用対効果の高さに感動し、この通信でも「高松うどん文化論」をぶちあげたことがありました。しかし、讃岐に行かずしてうどんは語れない、といった独断的郷土愛に満ちた地元出身プロデューサー、星川京二氏のハイトーンの力説に影響を受けたわたしは、かねてから讃岐探訪の機会をうかがっていたのでありました。
 そこで、どこを訪ねるべきかを知るためにインターネットで検索すると、出てくるわ出てくるわ。場所や店名はもとより、食べ方や評価などの微細な情報がてんこもりなのです。「S級指定店」などという特殊用語もありました。われわれはそれらの情報から、効率よくはしごするためのルートを計算に入れつつ、最も評価の高そうな店のリストアップをしました。ついで、異常うどん偏愛主義者、星川氏におすすめの店の紹介を電話で依頼すると、「どこそこのうどんは、すさまじい。でも、あそこの店も絶対に行く価値がある・・・」などと、かなり興奮気味にまくし立てられました。彼によれば、基本的に讃岐うどんは西讃、つまり高松から西であり、高松は論外なのだという。なかでも琴平、満濃町、仲南町のうどんは、スタンダードがきわめて高いが、所在の特定には現地案内人が欠かせないらしい。
 日帰り、かつ摂食許容量の関係もあって、もっともディープとされる5店のみを巡礼してきました。同行は、カメラの藤原信二さん。
 また、現地案内人として萱原孝二氏にお願いしました。讃岐行が決定したとき「たしか彼はあの辺に住んでいたはず」と思い出したのです。彼は、1972年のわたしのミュンヘン時代の知り合いなのです。彼は、ミュンヘン後、イスラエルのキブツで現地のヨメを調達して帰国し、その後、実家で農業をしたり、旅行代理店につとめたりしてずっと綾上町に住んでいるのです。
 早朝7時にポートアイランドを出発したわれわれは、うどん想念を膨張させつつ、新しい明石海峡大橋をあっという間に通過し、徳島経由で10時過ぎには最初の店「山内うどん店」(仲南町)にたどり着きました。うどん巡礼のための入念な事前調査をしていましたが、店は実にわかりにくい場所にありました。なにせ、山間の田園を縫う広くない田舎道からさらに測道に入った林の中にあるのです。どうしてこんなところでうどん屋が営業可能なのか。
 一見すると単なる農家。店内は、テーブル2卓に丸椅子、奥にちょっとした座敷。壁面には、黄ばんだポスターや角の丸まった掲載雑誌の切り抜き、2年前のカレンダー、演歌歌手の写真入り色紙などが無秩序に展開し、テーブルの上に、下ろし金、生姜、醤油差し、割り箸立てが、まったく投げやりにのっています。
 調理場は、「現場」という表現がむしろふさわしい。うどん粉袋が積まれた横では、エプロンをかけた老婆がビニールをかぶせたうどん地を一心に踏み、その横で息子らしい青年が延ばした生地を包丁固定式簡単製麺機で麺にし、店主らしきオッサンがときどき薪を投入し火加減をのぞきつつ煮立った大鍋に生麺を放り込み、店主配偶者らしき中年女性がゆで上がったうどんを一食単位に丸めて四角い板の上にのせていく。客席と現場の境界線上のテーブルには、山盛りのいわし、ナス、エビなどのテンプラ系トッピングが、やはり無造作に重なっていました。
「昔は瓦を焼いていたんだけどね、それじゃ食えないんでうどん屋を始めたのよ。このあたりは、うどん屋はつぶれないの」と眉毛の濃い小柄な店主らしきオッサンが、うれしそうにいう。ゆで上がったうどんの撮影に忙しい藤原信二カメラマンを横目で見つつ、わたしは注文した「ひやひや」を、おろししょうがと醤油をかけてすすり込むのでありました。これが、まったくもって、実に、うまい。ぷりんとした麺が、口中に滞在する時間を惜しむかのように喜びつつ喉を通過していくのです。一食単位がわりに小ぶりなので、あっという間に食べ終わる。
「ひやひや」とは水洗いして冷やした麺を、冷たいだし汁か生醤油で食べるものです。他にゆでたままの麺を熱いだし汁で食べる「あつあつ」、水洗いした麺を熱いだし汁で食べる「ひやあつ」があります。値段は、小200円、大250円、特大350円、トッピングがたしか1個70円だったか。わたしは、あまりのうまさに、久代さんが頼んだ「あつあつ」と「ひやあつ」の一部も味見したいという願望にうち勝つことができず、結局二玉分食べました。
 朝の10時だというのに、客が次々にやってきます。背広を着た中年男性が「昨日まで県外に出張でうどんを食えなかったので、まだ早いけど食べにきた」と猛烈な勢いでうどんをすすっていると、オッサンと、前歯が2本しかない老母、そのヨメといった組み合わせの三人が入り口の扉をあけ「ひやひや大2つとひやあつ1」と叫びつつ入ってきました。背広中年男性にも、この三人組にも、食事にやってきたというよりも、中毒者のような切迫感がありました。
 われわれは次に「谷川食堂」(琴南町)を目指しました。ここでわたしは、当日の現地案内人萱原氏と26年ぶりの再会しました。ミュンヘン時代のことなど、しばし思い出話にふけりました。知り合ったころの20代前半とは違い立派な中年顔でありました。彼もわたしをみてそう思ったはずです。真っ黒に日焼けしたネクタイ姿の現在の彼の顔と当時のイメージがなかなかつながらない。「今日は、ほんまは出張やけど、いいや。最後までつきあいますわ」。
「谷川」は、温泉宿に近い橋のたもとの、これもわかりにくい店です。割烹着を着た3名のご婦人たちが、ほぼ満席の摂食者のために忙しく製作・販売に携わっていました。ここのうどんは、「山内」よりも細くちょっとやわめでしたが、レベルは高い。ここでもやはり、テーブルに一味唐辛子、味の素、醤油、酢が配備されています。小100円、大200円。星川氏が「すさまじい」と表現していましたが、わたしにはむしろ「山内」の鮮烈さが印象的でした。
 地元案内人が加わったので、その後のうどん巡礼は遅滞なく進行しました。3軒目の「宮武」(琴平町)にたどり着いたのはちょうどお昼時。萱原氏すら見逃した小さな看板を頼らなくとも、なんとなく「あのへんではないか」と見当がつきました。人々が、路肩に列をなして車をとめ、黙々と一方向に向かって急いでいたからです。店の外観は、食堂の体裁ではなく普通の民家なので、なにか、結婚式か葬式のために人々が集まっているかのような、普通ではない雰囲気があたりに漂っています。
 引き戸を開けて比較的広い店内を見ると、すでにぎっしりと客が充満し、暗号のような注文かけ声と激しいうどんすすり音が交錯していました。一人のはげたオッサンは、テーブル上のうどんを2秒間ほどじっと観察したと思うと、決然と椀を口に持っていき、激しい勢いでうどんをすすり込む。口からは常に6本ほどの麺がぶら下がっていました。そのオッサンに限らず、他の老若男女客の異常な摂食速度、真剣な表情、切迫感には、普通の昼食風景の和やかさと違い、とにかく禁断症状から早く解放されたい中毒者のごとくなのです。わたしは、3軒目のこの店あたりから、讃岐のうどんには、反復性摂食強迫観念促進物質が混入されているのではないかとの疑念を抱くのでした。ここのうどんも、もちもちぷりぷりで、うまい。小230円、大300円、特大500円。
 次に行った「中村」(飯山町)は、すさまじい、としか表現しにくい。ここは、村上春樹が『辺境』で「目から鱗がおちた」と表現した店です。彼が、そのうまさでそうなったのか、店の尋常ならぬたたずまいでそうなったのかは定かではありません。ともあれ、たいていの讃岐未経験人間が初めてそこを訪れたならば、おそらく「えっ」と思う店ではあります。
 店は、母屋の隣に土壁むき出しの納屋。うどん屋を示すものは、入り口に垂れ下がる黄ばんだ小さな暖簾だけです。店内は、うどん製造現場と摂食空間が一体化した雑然とした空間です。境界の曖昧な製造エリアでは、30代後半とおぼしき女性が、無言でうどん製造に集中していました。やはり、下ろし金、醤油、生姜、大根がカウンター状テーブルに配備されています。値段表には、小100円、大200円、テンプラ各100円、玉子50円とだけ表示。「ネギは畑にあります。自分で切って下さい」などという張り紙もありました。客の一人は「ここの親父と口をきくまで15年かかった」などというように、ここの親父は相当偏屈な人であるらしい。うどんそのものは、すでに4軒目となったわれわれは麺満状態ではありましたが、その安さとクオリティーの高さは申し分ありません。
 腹部に苦しみの兆しが出てきたわれわれは、最後の「長田うどん」(満濃町)で今回の巡礼を終わることにしました。最初は、すぐ近所の「いきなり大根を出す」(星川)「小縣」にいったのですが、アポなし飛び込み取材撮影はダメということなので変更したのです。この長田と小縣は、きちんとした食堂の体裁をとっています。星川氏の分類によれば、こうした食堂然としたものが「オモテうどん」の店、民家風のものが「ウラうどん」店ということです。オモテうどん店とは、エアコンがついたり店内装飾にそれなりのゼニをかけているために、単価は高い。とはいえ、「長田うどん」の値段は、小250円、大350円。やはりテーブルには下ろし金、大根、生姜、醤油などが鎮座していました。わたしは、喉元まで未消化うどんが詰まってしまっているためか、長田のうどんはどうにも粉っぽく感じました。われわれは、もはや鼻からうどんが飛び出るほどの飽和状態なのでした。
 ともあれ、こうしてわたしは年来の願望であった讃岐うどん巡礼を果たしたのであります。以前の「高松うどん文化論」では、文化とは安さである、という論を高らかにぶち上げたわけですが、今回の巡礼の結果、そうした文化は人々の切迫感によって支えられる、ということが論拠として加えられたのであります。
 讃岐のうどん屋の安さと品質への挑戦には徹底したものがあります。とくにウラうどん店では、製造と供給以外に不要なものは徹底してそぎ落とす。BGMなんてもちろんなく、生姜や大根やネギといった薬味の提供も、客の自主的作業に依存することで人件費を削り、内装には一切ゼニをかけず、所在と営業を表示する看板や暖簾は必要最低限にする。客は客で、うまくて安いうどん以外は一切を期待せず、あたかも禁断症状の短期解放をのぞむかのようにわっさわっさとせわしなく消費する。文化というものが切実さと実質によって支えられるとしたら、まさに讃岐のうどん文化はその好例といえます。それにしても、4時間弱で5軒のうどん屋をはしごするのは、相当な苦行ではありました。でも、また行きたいなあ。(1998年6月)