叩かれる身にもなってみい

 ダルマ・ブダヤの「中国地方旅回り公演」に関する文を書けということだ。何でもよいという。なんでもよいとは何事であるか。ダルマ・ブダヤ・マガジンでは、号ごとのなにかしらの編集方針はないのか。しかも原稿料はタダだという。とんでもない話だ。また、分量も、1ページ1200字だから、1200字か2400字だという。依頼の仕方もええ加減だ。単にページを埋めたいという編集者の消極的意図がうかがえる。けしからん。まったくけしからん。でも、大震災があろうが、サリン事件があろうが、オウム真理教騒ぎがあろうが、警察庁長官が撃たれようが、もう、ぜーんぜんヒマでしょうがないわたしとしては、けしからんとは思いつつ書いてしまうのよね。ヒマつぶしなので、馬鹿なことしか書けません。悪しからず。
 ぜーんぜんヒマだという事実は変わらない。しかし、旅回り公演から現在まであいだ、世間の騒がしさが凝縮して襲いかかったので精神的にはめまぐるしく変化した日々なのでありました。したがって、「ダルマ・ブダヤ・中国地方旅回り公演」をめぐるさまざまな出来事は、意識としては100年前に起きたことのように思える。まるで古文書をひもとくように、相当のエネルギーで脳内を検索しなければならない。
 あの旅回りの記憶を検索してまず出てきたのは、演奏内容などよりもまず、「メンバーの一人に不条理的に頭を叩かれた」という事実であった。わたしは、中学生時代以来、大学時代に官憲にひっぱたかれた経験はあっても、敵意がないと思われる人から叩かれたのは初めてである。始末が悪いことに、叩いた家高選手には、無意識的な特殊願望未達成的不満状況があると予測されるにせよ、敵意も殺意もない。カミュの『異邦人』では、見ず知らずの人間に思わずピストルを発射したその理由を「そこに太陽があったから」だとして、近代社会の不条理性を描出せんとしたが、彼の場合は「そこに頭があったから」という深遠な哲学的根拠があったとは思えない。しかし、叩かれたほうは、何の理由もないし、本人が哲学を学ぶ学徒であること考慮に入れずとも、また、「酒の勢い」という特殊状況は無視できないにせよ、不条理、ととらえるしかない。「不条理的頭叩き」が、わたしの常時揮発散逸的ランダム・アクセス・メモリーにありながら、好ましい印象として揮発せずに残っているということは、瞬間的にせよ、加えられた打撃ないし肉体の接触がいかに記憶として持続するかを物語る。
 ところで、ガムランの楽器群は、こすられたり(ルバーブ)なめられたり(スリン)する楽器は別にして、総じていつも「叩かれる」。彼らにとっては、叩かれることによってしか存在理由がない。叩かれなければただの金属のかたまりである。棍棒様のものでさんざんひっぱたかれ、本当はじっとたたずんでいたいと思っても無理矢理全身をふるわせなければならず、また、安定状態でただよっていたい空気を振動させて彼らに迷惑をかける。あまりにも無体な仕打ちなので抗議の一つもしたくなる。そこに座りたいといってもいなのに人間が勝手に不安定な中空に「据え」させる。抵抗の意志として体をずらそうとすると、無理矢理もとに位置に戻される。紐の脱落を計り成功しかかったとたんに隣の人間が不安定な紐を引っ張って抵抗に弾圧を加える。この光景を、わたしはたしか高松公演で確認している。
 思えば、苦難に満ちた人生だと、金属たちは回想しているであろう。幾多の変遷の末に見いだした安住の岩石の中のひとすみで何億年もひっそりとたたずんでいたのに、にわかに同じ仲間だけが抽出され、見ず知らずの他人と混ぜ合わされ、とんでもない高熱や打撃や強烈な化学薬品などでからだをがんじがらめに固定され、まあいいか、これでしばらくやってみるか、と思ったとたんさんざんぶっ叩かれる。トンカチ状打撃用具の気持ちだって同じであろう。誰だって、お互いに身を削られるようなことはしたくないはずだ。少なくともわたしは打撃用具にもボナンにもなりたくない。どちらになっても痛くてたまらない。叩いた人間は、叩かれたりふるわされる金属と空気によって発生する音の集合を、叩き具合や同期具合を調整して「音楽だあ」「やっぱガムランの響きは宇宙的なのよね」などと喜んでいる。金属たちとすれば、どうせ叩かれるのであれば、仲間と苦痛を分け合いたいはずである。したがって、バシッとテンポとタイミングが合っていれば、せめてもの慰めとなろう。中国地方旅回り公演では、それ以前の、どこか微妙にズレた不明快さが減少したように思えた。練習の賜であろう。かなり集中した練習を積んだということは、金属たちがいつになくたくさん叩かれたことを意味する。その苦痛たるや、想像だにできない。完全に疲労しきっている楽器もあることは、その音を聞けば歴然としている。
 さて、倉敷公演のプログラムを眺めつつ若干の感想というものを申し述べてみたい。「開始の儀」。曲目解説には、「異空間が出現することを願う」とある。ガムランの場合、鈍い光を放つ異形の楽器群が展開されただけで既にして異空間である。「願う」などという言葉が必要だったか。「ブディ・ラハルジョ」。はっきりいって、曲の印象のメモリーは揮発している。あ、インドネシアの曲だな、でもちょっと新しいかなあ、というくらい。「タイムズ・アップ」。もはやダルマ・ブダヤの十八番ともなった曲。いつ聞いてもよろしいなあ。もうちょっとシャープさが出れば完璧であろう。「木の音楽」。搬送のたびに邪慳に扱われた竹の、葉ずれの音は印象的である。全体の密度をもう少し高めれば、引き締まった曲へ発展するであろう。「ウィルジュン」。うーん。インドネシアプロパーの曲を聞くと、ガムランという楽器の必然性がよく分かる。「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」。よかったねえ、これ。なかなかでした。ソリストも凛々しかった。ただ、ヴァイオリンのチューンに若干甘さが感じられた。
 ということで、なんとか規定字数をクリアーしました。よかったですね、ページが埋まって。

ガムラングループ「ダルマ・ブダヤ」機関誌掲載