1988年引っ越し顛末記

皆様いかがお過ごしでしょうか。今回のサマーチャル・パトゥルは、住所の変更をお知らせすることから始めなければなりません。これを書いています今は、引っ越しを3日後に控えた夜の11時13分すぎです。引っ越しを決め、新住所の契約が済んでから、わたしの机の周辺のみならず部屋全体が乱雑さを増してきました。配偶者もわたしも、どうせ引っ越しで整理するわけだから、と整理整頓のエネルギーがわいてこない。近所の洗濯屋に出している洗濯物は、出すだけ出して預けっぱなしです。
「あなた、このブラウスとズボンを洗濯屋に出しておいて」
「きみがいけばいいぢあないか、ぼくだってやることはあるのだ」
「そうじゃないのよ。5月にセーターとかの冬物を出して預けっぱなしなのよ。わたしが行くと、それをとってこないとだめなのよ。引っ越しまでは置いておきたいから」
で、ぼくはしぶしぶ洗濯屋に行った。
「これ、お願いします。中川と言います」
「はい、分かりました」と洗濯屋のオバサンは伝票をわたしに渡しつつ、
「中川さんと言えば、やっぱり中川さんという女の方で長い間預けられているお客様がおられるんですが、おたくと関係はないんでしょうか」
 彼女の視線の方向を見ると、割りと大量のひとかたまりの洗濯物が棚に置いてある。
「・・ええ、実は関係者なのです。申し訳ありません。しかじかで引っ越しで云々云々・・・」「では、まとめて30日にお届けに上がります」
 ということで、使用しない衣類の無料臨時保管場所として利用してきた洗濯屋との話はついたのでありました。こういうちょっとした仕事から始まって、新旧の住所の解約及び契約作業、電気、ガス、水道、電話、名刺、住所印などの変更に伴う用事、このサマーチャル・パトゥル、不要と思われる本、書類、衣類の処分、会う人毎に伝えること、など引っ越しというのは実に大変なエネルギーが要るものです。ですから、この3月にも引っ越しの気運が高まったとき、気の重くなるような繁雑な作業を想像してそのときは取りやめにしていたのです。しかし、やはり今の家は狭い。移動するのに必ずなにかにぶつかる、人が泊りにくると流しの前に布団を敷かなければならない、年中陽が当たらない、それなりに立体的に収まっていた物が次第に収まるべき領域を侵略し平面的かつ重層的かつ無秩序に散乱し始める、という事態に至るに及んでついに決心をした訳なのであります。金物ビルにはちょうど丸4年住んでいたことになります。ビルの名称が即物的でシブイ(金物屋さんがオーナーでした)、市の中心部だけでなく、再度山やメリケン波止場までも歩いていける、JR、阪急、阪神、地下鉄の駅、図書館までどれも徒歩数分、その割りに家賃は比較的安い、隣同士でコーヒーの貸し借りまでできる、近所には安い市場、真向かいには郵便局(よく手紙をだすので、ここの局員はたいがいわたしの名前を知っている)、などなど現在の住所のメリットはたくさんあります。隣に住んでいるアメリカ人のパトリックと、身重の奥さんマサコさんとその子ダイスケも、われわれが引っ越しをするといったら嘘泣きをしつつ別れを惜しんだのです。が、しかし、6畳+LDKでは、やはり、狭い。
 で、今は引っ越し先の家でこれを書きつないでいます。本日は、7月3日の日曜日。全身がだるく、何か動作をするたびに節々が否定的に反応し思考も鈍い状態です。引っ越しの前日から慌ただしくダンボール箱などを収集し、混乱しきったものものを収納、その合間に気功や社会評論、料理、世紀末の会やらで活躍中の津村喬氏の満月会を覗き(彼のほんとにおいしそうな料理をじっくり味わうことができず、つまみ食いだけでしたので、実に残念な思いでした)、取って返して荷造り。何かの役に立つのではないか、と思ってとっておいた書類やモノが、結局、そう思ったときに捨て去るべきだったと気がついたのは、収納の段階なのでありました。従って、比較的大量の捨て去るべきものが発生し、最後には捨て去るべきものと持っていくものが相互に侵略しましたので作業は手間取るばかりでした。深夜まで作業し、次の日、7月1日はいつにない早朝起き。まったく、世の中の人々は朝早くから活動しているのですよね。引っ越し屋さん3人が約束の時間ぴったりにやってきて、割りとアッサリ積み込んでしまった。昼過ぎには、新しい家に荷物を運び入れ完了。そして、今。もう疲れ果てました。その日、新居に出入りした人は、家庭教師で教えている枚田正史少年手伝い(1名)、食べ物のさし入れに来ていただいた枚田少年のご両親(2名)、ビールを差し入れにやってきた近所のキーボード奏者の土井亮さん(1名)、ガス屋(1名)、電気屋(3名)、有線テレビ屋(1名)電話工事人(3名)、どこでかぎつけたのか朝日新聞の勧誘員(1名)、引っ越し屋(3名)、つごう16人。
 新しい家は、6畳(和室)+6畳(和室)+4畳(洋室)+DK。トータルの広さが、金物ビルの家の倍以上になりましたが、ずっと狭い家に住んできた関係で、ものの配置方法にとまどっています。鈍い思考力も手伝って、平面的にゴロゴロと置いてあるものの隙間に座り、ボーゼンとしているのです。まあ、ゆっくりと慣れていくしかしかたがありません。今のところ、新居の環境などを報告するには情報不足ですが、津村氏がやはり最近同じ団地に越していて周辺の事情を満月通信で触れていますので、読まれている人はご存じでしょう。回りは似たようなビルが林立し、まだ、まともにわれわれの家のあるビルにたどり着けない情況です。そのうち、われわれも落ち着きましたらご報告したいと思います。
 唐突ですが、よく知られているように、インドでは、ヒンドゥーの理想的人生として4つの住期をおきました。つまり、1-学生期、2-家長期、3-林住期、4-遊行期です。1と2は、社会生活のために必要なことを学習したのち、家族やもろもろの人間関係の中での世俗的な生活を送る。3は、4の完全脱俗の準備段階で、自分のこれまでの人生を振り返り点検し、世俗的社会を相対化するという段階であります。第3段階を積極的にクリアーするのは非常に限られた人です。ここで、なぜこの段階のクリアーが困難なのかを考えてみると、生活に最低必要なモノ以外のモノを捨てられないからなんでしょうね。今回の引っ越しの理由は、前の家が狭い、ということでした。つまり、家の面積は変わらない訳ですから、モノが増えたということです。モノを捨てるのが惜しいし、かつこれからもモノが増加しそうなので、その収容スペースを持つために家を変えたということになります。ヒンドゥーの理想的人生では、第3段階の過程でモノをすこしずつ減らし、そして第4段階でモノを完全に捨て去り、遊行に入るわけですから、まったく逆のパターンを描いて人生を消化しつつある訳です。人の一生パターンはそれぞれですから、ヒンドゥーの言う理想的人生とことなっていても問題はないのですが、シンプルライフの修業ともいうべきインド生活からわれわれはいったいなにを学んできたのだろうか、とモノの移動に明け暮れたこの3日間を振り返り、反省をしていると同時に、日本ではしかたがないのかなあなどと考えているのです。

サマーチャール・パトゥル第3号より