アイデンティティということ

 かつてインドのバナーラスに住んでいたとき、「われわれがインド音楽を学習することはどういうことか」といった話題で他の日本人と議論したことがありました。この議論はけっこう根の深い問題をはらんでいて、結論のようなものを出すのは不可能です。単なる「民族的」なアイデンティティに関わる問題だけではなく、音楽行為そのものの意味も問われていたからです。
 民族的アイデンティティ、といってしまいましたが、この言葉もなかなか単純にはいかずうるさい概念です。
 以前、神戸で行われた「国際青少年フォーラム」で、とんでもないことに問題提起者の一人に指名され、「伝統文化の認識」という大テーマで分科会を担当することになったことがあります。わたしは、しどろもどろの英語で「国際交流はますます盛んになっていくだろうが、自分自身のよってたっている文化をしっかり認識して初めて交流の意味があるのではないか」などと発言したところ、当然のことながら賛否両論が出ました。まあ賛否両論が出るかぎりにおいては議論を進めることに問題はなく、むしろ意見のある人たちに勝手にしゃべらせておけばこちらは楽だと傍観していたのでありました。
 ところが、オーストラリアのある白人青年の、じゃあ私はどうしたらよいでしょうか、という質問ですっかり調子が狂ってしまったのでした。
 わたしたちの能、歌舞伎、相撲、生け花、茶道、神道、わびさびなどにあたるいわゆる伝統文化は、彼のようなヨーロッパ系オーストラリア人にとっては何か。ヨーロッパとは峻別できるオーストラリア固有の伝統文化とは何か。被征服者であるアボリジニーの人たちの伝統文化は、彼にとってはどういう意味をもつのか。
 提案者のわたしはその質問後メタメタになり、まとまっていたと思われた思考は断片となって四方に飛び散り、だからオレはこんなんに出るのはイヤだっていったのに、主催者の人間関係につられて、しかもゼニにも多少つられれて引き受けた自分を、主催者の関係者である知人を、その知人の属する団体(ボーイスカウト)を、その団体に加担する人間を、会場のある神戸を、兵庫県を、日本を、世界を、宇宙を呪い、会議の早期終了をひたすら願ったことはいうまでもありません。
 アイデンティティといったとき、にわかにうるさくなるのは、帰属すべき単位としての国家や民族が単純に割り切れないからです。たとえば、くだんのオーストラリヤも含めたかつての「新大陸」の国々を考えてみます。グラデーションのごとく混血の進んでいるブラジルでは、もはや自分の民族的ルーツを辿ることすらできないし、また意味をなさない。かつての征服者と被征服者が入れ子状態になっている地域もあれば、同じ民族だと思われていても宗教が異なって対立していたりする。単一の民族としてひと括りのできる民族なんてないのですよね、厳密にいえば。あるのは共通性認識の濃淡だけです。どんどんどんどん薄くしていくと最終的には「世界は一家、人類みな兄弟」なわけであります。極論ですけど。ですから、「民族固有の伝統文化」などといっても、共通性認識が少し濃いものどうしの比較でしか語ることができない。
 民族固有の伝統文化は、その濃い集団が歴史的に育んできた美の意識によって成立しています。ところが、その集団によって一般的に認知された共通の美の感覚は、許容できうる外部からの新しい美の様式に影響を受けてきたことは歴史が証明しています。しかも、たいていそうした新しい美の様式を受け入れるのは伝統的な美的訓練を多く積んだ人たちでした。特定の美の様式に習熟した人ほど、他の美の様式に対して寛容であったと思います。それはおそらく、美への観察がある一定の水準に達したとき、固有さの濃淡を超越した美に対する態度、アーティストシップ(芸術家魂)といったようなものが獲得されるからかもしれません。そうしたアーティストシップは、人類に共通するところなのだ、とまあ考えるのでありますね。
 そこで、最初の「われわれがインド音楽を学習することはどういうことか」という話題にたち返ってみます。かなり固有性の濃いインドの音楽美の様式に触発された人は、この芸術のもつ普遍的なアーティストシップの一端に触れたことになると解釈すれば、日本人であるわたしたちがこの音楽を学習することには何の違和感もないし、むしろ新しい音楽様式の中にそうした普遍性を感じ取ることのできた感受性を大事にすべきではないか。インド音楽の美を感受できうる人はだれでも学習の門戸は開かれているし、現に学習している外国人は数多く存在しています。インド音楽をはじめ世界のあらゆる音楽を人類の築き上げた貴重な音楽様式の一つとしてとらえれば、民族や国の障壁はあまり意味をもたないともいえます。
 千年単位で連続的に積み上げられてきた固有性の濃い文化を誇るわたしたちの日本、中国、インドといっても、厳密なアイデンティティということになると、時間を遡れば遡るほど、そして今後の通信交通手段の発展につれてどんどんあやしくなっていくことは自明です。現に、日系アメリカ人のように、たとえ混血のない日系人でも、世代を経ればもはや日本伝統文化を共有する人とはいえないし、逆に日本に在住する外国人が増えている現状を考えると、日本というアイデンティティすら意味をもたない時代に入っているともいえます。

サマーチャール・パトゥル第16号(1994)より