伝統を知ることの意味

 伝統を知ること、などと大それたことをタイトルとして掲げていますが、私自身、この日本に生れ育ちながら、特に音楽文化に限って言えば、はっきりと日本の伝統がこうであるということはできません。
 現在、私は、インドの伝統的な音楽を学んでいます。日本人である私が何故インド音楽を学ぶにことになったのか。また、インド音楽を学ぶことと日本の伝統、特に日本の伝統音楽を知ることがどう関係あるのか。これらのことを紹介することで、一体、伝統とは何か、そして国際性とは何かについて、私なりの考え述べたいと思います。
 日本の近代教育は、明治時代以降、欧米の方法を取入れて行なわれてきました。そのため、どうしても、歴史的、伝統的なことを犠牲にせざるをえなかった。今や日本は、世界の経済大国です。しかし、金持ちになりましたが、人々は、自分自身のアイデンティティーや、日本人としてのアイデンテイテイーを失ったかのように思います。
 音楽教育も、一貫して西洋音楽の方法や楽器を通してなされてきました。その結果、西洋社会でも立派に通用する優秀な西洋音楽の演奏家が育ってきました。反面、そうした環境がずっと続いてきたので、西洋古典音楽のみが芸術性の高い音楽だとみなす傾向が強くあります。従って、古くから続いてきた日本の伝統音楽は、一般の人々には馴染みの薄いものになってしまいました。今でも、日本や非西洋の伝統的古典音楽は、変ったもの、珍しいものとみなされ、演奏会を開いてもなかなか成功しません。
 私は、このような環境のなかで音楽教育を受けてきました。小学生のころは、学校でヨーロッパの縦笛、リコーダーを吹いたり、五線譜に書かれた日本やヨーロッパの歌を歌ったりしました。基本的に、小、中、高校の音楽の授業は、五線譜をきちんと読んで正しく演奏すること、正確な音程で歌うこと、西洋音楽の歴史などが重視されているのです。五線譜が読めないために音楽が嫌いになった人はたくさんいると思いますが、私は音楽を聴くのも演奏するのも好きだったので、音楽の時間は楽しかった。
 中学校ではバイオリン、高校ではブラスバンドでトランペットも吹きました。ビートルズの音楽にふれたのは高校の頃です。ギターの伴奏でフォークソングを歌ったり、ピアノなどもやってみました。楽器は高くて買えなかったので、学校のものや友人の楽器を借りて楽しんだものです。
 当時好んで聴いていた音楽は、イタリアのカンツォーネ、ビートルズ、ローリングストーンズなどで、友達の間でも、そういう音楽を聴くことが格好良いとされていたのです。
 西洋のバロック音楽に触れたのは大学生になってからです。特にリコーダーの音に魅せられました。リコーダーは、小学生の時も吹いていたわけですが、バッハやヘンデルがリコーダーのための作品を書いていたことを初めて知りました。子供の楽器だと思って馬鹿にしていたリコーダーが、素晴らしい表現力を持っているということにきづき、そのとりこになりました。一日に10時間も練習したことがあります。しかし、楽譜に忠実に演奏することの息苦しさも次第に感じていました。演奏していて、どうも自由になれないのです。ヨーロッパから取寄せる楽譜も高価で、学生だった私にはなかなか買えませんでした。
 というわけで、私は職業的な音楽家になるための訓練は受けていず、かなり怠け者の音楽愛好者でした。
 インド音楽に初めて接したのは、ビートルズがシタールを使っているのを聴いた時です。シタールの、何ともいえない不思議な音が強烈な印象でした。また、その後、大学を休学してヨーロッパから中東を経てインドに旅行したときにそれぞれの国の音楽に触れ、世界には様々な音楽のあることを知りました。
 その旅行のとき、インドの3等列車内で聴いた竹の笛による音楽が強い印象として残りました。単純な竹笛から次々に繰り出される音。そのテクニックや、いつ果てるとも知れないメロディーの連続、自由さに驚き、感動したのです。私が、インド音楽へ興味を持ち始めたのは、そのころからです。そして今では、インドの古典音楽をインド人の先生について習っています。
 音楽は、ときとして人の生き方まで変えてしまうものです。
 大学を卒業後、就職した会社が、幸か不幸か、入社3年目で倒産しました。私は、再びインドに旅行し、あの素晴らしい笛をもう一度聴き、自分でも修得したい、と思うようになりました。そこで、3年間別な会社に勤め、インド行きの資金を作り、妻と私は、ヒンドゥー教の聖地として名高いベナレスのベナレス・ヒンドゥー大学音楽学部に入学しました。妻も私も共に31歳のときです。
 その大学には、外国人だけに開かれた講座がありました。音楽理論学科の音楽鑑賞コースです。インド音楽を世界中の人に知って貰おう、という主旨で開設された学科で、インド音楽全般の理論や実践を教えます。こういう学科のあることから分るように、インドの人々は音楽を重要なものとして考えています。彼等の、音楽を含めた芸術文化にたいするプライドは非常に高い。また、インド音楽は、知れば知るほど魅力的で、奥の深いものだと知り、ますますのめり込んでいくことになったのです。
 私たちの所属する音楽鑑賞コースには、イタリア、タイ、ドイツ、アメリカ、日本からの学生がいました。
 大学は忙しくなかったので、よく私たちはインド人や外国の学生と、音楽のことや哲学のことなどについて話しました。インドに暮すと、誰でも哲学的なことを考えるようです。
 ある日、私たちのアパートにイタリア人の友人がやってきました。彼はキリスト教の牧師であり、大学では比較宗教学とインド音楽を研究していました。私たちは、ヨーロッパの哲学や宗教、音楽などについて話が弾みました。私たちは日本人でしたが、ヨーロッパのことは本などでそれなりに知っていましたから、会話は続きました。
 ひとしきり欧米の話題が続いた後、友人が、日本の宗教について説明してほしい、と言いました。神道というのはどんなものか。日本の伝統音楽とはどんなものか。インドやヨーロッパの古典音楽にあたるものは何か。
 ここで私たちは、自分の生れ育った日本の伝統的なことについてはまったく無知に等しいということに気がつき、愕然としたのです。
 それまで順調に続いていた会話が、彼の質問で途絶えてしまった。私たちには、彼の質問に答えられるほど、自分たちの国の音楽や宗教についての知識も体験も無かった。このことは私たちには大きなショックでした。世界の色々な国の人々と交流するためには、自分の生れ育った社会や文化のことをもっとよく知らなければならないことを思い知ったのでした。
 私の日本での音楽体験は、今まで述べてきたように、基本的には西洋音楽が中心でした。そしてそれに、インド音楽が加わった。しかし、私たちの生れ育ったこの日本の音楽に関しては、ほとんど興味をもつことがなかった。
 インド留学から帰り、インド音楽の演奏活動や、演奏会のオーガナイズを日本ではじめましたが、常に頭にあったのは、インドでの体験でした。インド音楽や非西洋の音楽を研究しつつ、日本の伝統芸能をもっとよく知る方法はないか。
 私は、昨年から「アジアの音楽シリーズ」ということで、小規模な演奏会を企画し制作しています。あるテーマにしぼって、アジアと日本の芸能を紹介しようという主旨で始めました。日本の伝統芸能といっても、アジアの国々との古くからの交流によって相互に影響し合ってきました。一つの演奏会の中で、アジアと日本の伝統芸能を同時に聴いたり見たりする。そうすることでお互いの共通点と相違点がはっきりしてくる。
 今では、日本の伝統芸能の素晴らしさが少しずつ理解できるようになりました。
 わたしは、この様な活動は、国際交流の一つの在り方を示すのではないかと思います。自分自身のことを知ること、自分自身をとりまく社会を把握することが、同時に国際性をもっているのだと思います。そうした自分自身を知るためには、ときには他人の目で見なければならない。インドの音楽を勉強することで、私は随分、日本の伝統について学んだように思います。
 私の友人に、ハムザ・エル=ディンという素晴らしい音楽家がいます。スーダンとエジプトの国境地帯、ヌビアの人です。ナイル河をせき止めてアスワンハイダムが作られましたが、彼の故郷はそのダムの底に埋れてしまいました。彼がまだ少年の頃です。現在は、日本、アメリカ、エジプトを根拠地にして世界中を演奏しながら旅行しています。
 彼の素晴らしいところは、故郷が水没しても、どこに住もうが、いつまでもその故郷の歌を歌い続けていることです。ハムザの歌を聴く人々は、ハムザの故郷の歌を聴いているのに、自分の故郷を思ってしまう。そして、自分の故郷が結局、地球に属しているということ、宇宙に属していることに気付くのです。いつのまにか世界を住み家にしていたハムザは、本当に青少年のようです。本当は60歳位ですが、話をしていると私の方が年を取っているような感じのする時があります。
 若さを常に保つこと。私たちは、年をとります。しかし、青少年のときに感動したことは死ぬまで忘れません。ハムザのように、大人になってからも、ずっと故郷を歌い続けることも、若さを保つ方法です。
 自分の生れ育った家族、文化、社会をよく知ること、自分自身をよく知ることが、同時に他人を知り、社会を知り、地球を知りそして宇宙を知ることだと思います。それぞれが他者を分り合うためには、まず自分のことが分らなければならない。そして他者を分るためには、青少年のような柔軟な想像力を持ち続けることが必要だと思います。

(《国際青少年フォーラム》(1990年、神戸国際交流センター)プログラム原稿