ジャカルタ下痢顛末~エイジアン・ファンタジー・オーケストラ・ツアー95

 パダン料理

 それは、公演前日の深夜に始まったのでした。つまり、10月13日の未明です。
 12日、エアコンのないホールでの汗まみれのリハーサルのあと、金正國氏、香村かをり氏、賈鵬芳氏、植村昌弘氏と、ジャカルタに住んでいる高岡結貴さんの案内でホテル近くにあるパダン料理を食べに行ったのでした。
 そのレストランというか食堂は、板でぐるりを囲んだ簡単なつくりで、むき出しの屋根の波板鉄板がそのまま天井となっている、どちらかというと半永久的屋台といったおもむきの店でした。こういった店はたいていおいしいに決まっています。実際われわれの期待に背かず本当においしかった。結貴さんによれば、パダン料理の特徴はその辛さにあるとのこと。唐辛子偏愛主義者であるわたしは、テーブルにどんどん並べられる狂暴そうなたたずまいの皿を前にして期待感が高まるのでした。
 店にある限りの料理が小皿に盛られて目の前に全面展開され、一度でも箸というかスプーンをつけるとそれが勘定に組み込まれる、というのがパダン料理屋のシステム。色やたたずまいを見て、これはどうも、という皿を脇にどけるのがあとあとの勘定トラブルを避ける一策です。スパイスや業火にいたぶられた魚、野菜、チキン、マトンなどが人々の口中に早く飛び込みたいと待ち構えているのでありました。わたしは、それらがあまりにもおいしかったのでご飯を3度もおかわりしたほどです。実際、パダン料理はご飯の親しい友人なのです。
 缶ビールもそれぞれ1本ずつ頼み、6人で42,800ルピア。日本円で2,000円弱。一人3百数十円。こんなんでええんかいなというほど安い。
 おそらくこのパダン料理の暴食が、機会をうかがっていたわたしの腸内細菌の第一次活性化の好環境を用意したのであろうか。紹介してもらった高岡結貴さんには責任はまったくありませんし、同行したなかで急激な下痢に襲われたのがわたしだけなので、おそらくそれ以前の体調とその後の状況によるものと思われます。 

 ダンドゥット・バーで踊る 

 そのパダン料理の至福的満腹のひとときを過ごしたわれわれはホテルへ戻り、休む間もなく、ダンドット・バー、パウィットラ・チャンドラ(サンスクリット語源なので多分「神聖な月」という意味)へと向かうのでありました。
 同行者は、香村かをり氏、金正國氏、木下伸市氏、久米大作氏、金子飛鳥氏、原えつこ氏(この人は飲むと玲子という名前に変わる)、賈鵬芳氏、張林氏、陶敬頴氏、植村昌弘氏、佐藤一憲氏、高岡結貴さん+亭主のアグス、亭主の手下のヘンリとデデン、丸本修氏、高橋努氏。このバーは、ジャカルタの歌舞伎町てな感じの飲み屋街、マンガ・ベサール・ラヤ通にあります。
 われわれはここで汗だらけになって踊りました。ダンドゥットというのはそれほど激しい踊りではありませんが、なにせ場所は赤道に近いジャカルタであります。じっとしていても汗が出る。60年代を思わせるあやしくどぎつい色の照明やミラーボールが熱風をトロトロとかき回し、暗い店内はすえたような匂いがただよう。
 そこにはまた、孤独を癒すためにやってくる男性客を狂わさんと職業女性がうごめき嬌声をあげる。町のアンチャントッツァン風のバンドマンたちは切れの良いルンバのようなリズムを刻み、インド民謡で鳴っているような笛が曲をやわらげる。南方のまったりとした雰囲気にぴったりの踊りです。音楽は決して「洗練」されたものではなくむしろ「くさい」といってもよいのですが、大衆的娯楽場にふさわしい。
 こうした雰囲気のなか、われわれはまるでスポーツのように踊りビールをごくごく飲むのでありました。久米大作氏などは、しぼればしたたり落ちるほど汗まみれでした。激しいエネルギー消費と発汗、おそらくこの段階で、わたしの腸内細菌の第二次活性化の環境が整えられたと推測されます。
 12時を過ぎ、ぼちぼち帰ろか、というころスイカ、ブドウ、ミカンなどのフルーツが出ました。汗をかいたのでおいしく食べましたが、これらの果物摂取がわたしの腸内細菌の第三次活性化を著しく促進させたに違いありません。その兆しがわたしの腸内の奥底で頭をもたげつつあるのをかすかに感じてはいたのです。ここでわれわれは一人23,000ルピアを支払った。約1,000円強。パダン料理に比べてちょっと高いがそれでもかなり安い。 

 そして始まった

 ホテルに戻ったのは1時過ぎ。シャワーを浴び安眠状態へと突入せんとベッドに横たわったとたん、それがやってきたのです。
 下腹部臓器の安定した位置関係が突如狂いだしたような鋭い警鐘ののち、にわかにやってきたのでした。執拗な腸の収縮、収まったかなと思ってベッドに横になるとただちに再びやってくる。そのようにして、便器に座るということと読書がほぼ同義であるわたしは、それまで読みかけていた文庫本を読了したのでありました。
 さらに2~3時間おきに水のような下痢が続き、そのたびに虚空へ向かって罵りの言葉をつぶやき、残された唯一の印刷物である英字新聞を読了し、最後はお札の文字まで読むに至るのでありました。そうこうしているうちに窓の外が明るくなり、ああ、朝だあ、と思う間もなくまたバスルーム。すっかり夜が明ける頃になるとなんとなく体が熱っぽく感じられ、汗も出てきました。 

 ドクターの豹変 

 その日はリハーサルでしたが、とてもその気分ではなく一日ベッドに横たわるという完全な病人になったのでありました。途中電話をくれたピットインの小林絵美さんがドアのすき間から差し入れてくれた下痢の薬を服用しました。
 しかし、間歇的な下痢、熱っぽさ、腰痛は続く。エネルギーだけはとらんと、と思い、ルームサービスにバナナを注文。2本のバナナはたて半分だけ皮がむかれ、ナイフとフォークが添えられていました。たしか5,000ルピアほどでした。約230円。バナナもナイフとフォークを従えるとこうも出世するもののようです。
 次の日が公演本番だというあせりもあり、七時ころドクターに来てもらい注射と薬をもらいました。 若いメガネをかけたドクターは肌の色は濃いもののどことなくアメリカ人学生という感じでした。治療費170,000ピア。約8,000円。尻に注射を打つとき気恥ずかしそうに「I AM SORRY」という。なんとやさしいドクターなんだろうと感謝の念でお礼を申し述べると、ドクターの物腰はにわかにビジネスマンのそれに変化しました。
「あなたはインドネシアルピアで払うのか、米ドルでも円でもいいけど」などと現実的な問題に入る。こちらは一日中寝ていて、なにも食べていず元気がないので
「はあ。でも、へ、部屋には現金がないのです」というと、
「では下で両替をして下さい」
 ビジネス眼となった彼は、よれよれと着替えをしたわたしにピッタリよりそい一緒にロビーへ向かうのでありました。両替、お札枚数確認のあいだドクターは終始わたしの側で作業をスルドク観察していました。お金を受け取るとすばやく領収書を作成し、薬はちゃんと飲みなさい、バナナはだめ、リンゴにしなさい、なにかあったらここへ連絡せよ、ではさようなら、と去っていきました。

 わたしだけではなかったのだ 

 しばらくして、リハーサルを終えた賈鵬芳氏、木津茂理氏、香村かをり氏、文京雅氏、金正國氏らが見舞いにくる。賈鵬芳氏と茂理さんにりんごを買ってきてもらいました。注射が効いてきたのか、熱っぽさは減少した。あとで、NAYANや本村鐐之輔氏からも電話をもらいました。本村氏は「インド暮らしの中川君がダウンするとは思わなかった。みんなショックだったみたいよ」という。
 しかし、聞けば、体調を崩したのはわたしだけではなかったようでした。香村かをり氏、賈鵬芳氏も下痢気味だといっていたし、田中悠美子氏も実は下痢で臥していたのだという。この日の出来事以来、メンバーの会話には必ず、まだ続いているか、止まったか、といった話題が挿入されることになったのでありました。多かれ少なかれほぼ全員がなんらかの体調異常があったのです。なにもなく健康そのもの、なんて人は人間ではありません。

 帰国してから、下痢の止まらなかった人、始まった人、赤痢やコレラで隔離された人などが出現し、各地域の保健所は多忙だったと思います。わたしは、成田の検疫で1回、神戸にもどって中央保健所の保健婦さんがわが家に来て1回、わたしが保健所に出向いて1回と、都合3回の検便をしましたが、伝染性の細菌は発見されず、したがって隔離もされずでした。国のお金でホテル生活のような隔離入院は一度経験したかったなあ。隔離された金子飛鳥氏や仙波清彦氏の、すっごくよかったあ、との話を後で聞いて思ったのであります。

サマーチャール・パトゥル第19号(1996)より