芸術文化振興の中身

 このごろ、芸術文化振興というのをよく聞く。兵庫県は昨年「芸術・文化センター」を創設したし、さらに「丹波の森・芸術村構想」をうちだしている。また、神戸市も今年になって文化振興課という部署ができ、芸術活動への助成を始めた。
 演奏会の企画や演奏活動をしているわたしとすれば、こうした動きは一見結構なものに映る。しかし、振興すべき芸術文化の中身となると、どうも理念のみが先行し具体性がないという印象を受ける。
 芸能や芸術などを核に街おこしをしたいというのは、多くの市町村が思ってきたことであろう。そのために多大な資金を費やし立派な音楽ホールが地方にたくさんできた。内外の有名音楽家が鳴り物入りでこけら落とし上演を行い、そのときだけは全国的に話題になるものもあった。しかし、いざ花火を打ち上げてみたものの後が続かない。なぜそうなっているのか。
「芸術文化」を核とした街おこしというとき、わたしはパリとバリを思い浮かべる。 パリは言わずと知れた芸術の都市である。今日までパリがその地位を保ちえた原因の一つは、芸術は人間が生きていく上で不可欠だという認識であり、そうした認識で芸術家やその卵を庇護し育成してきた点である。そのために提供された富は、結果的に還元される。還元された富は社会資産として投資され、それがまた人を寄せつける。芸術家たちがパリに集るのは、そこへ行けば食べて行けるという希望があるからである。
 一方、バリ島にプリアタン村という芸術村がある。そこでは昔から、農民が独自の芸能を発達させてきた。そして、生活に不可欠な伝統として育てていた彼らの芸能は、普遍的な芸術として世界に認知されるようになる。彼らの芸能を見た一ドイツ人画家のアドバイスで成立したのが、今や世界的に有名なケチャである。知られてくると村にはさまざまな芸術家が集り出す。隣の絵画芸術村、ウブドゥと並んでプリアタン村は今では世界的に有名になり、多くの人が訪れるようになった。彼ら自身も、農民かつ芸術家として世界中で公演している。
 パリやバリのような「街おこし」は日本では可能だろうか。もちろん可能だと思う。しかし、このごろの行政のいう芸術文化振興では、まず無理な気がする。なぜなら、行政の担当者たちに、パリやバリの人々のような、人間が生きていく上で芸術文化が不可欠だという認識や、本人たちにとっての生きた芸術文化の中身に対する想像力が欠けていると思うからである。そうでなければ、全国の無数の立派な施設はもっと生き生きと使われているはずである。
 そこで芸術文化に携わる行政担当者にいいたいのは、中身の乏しい芸術文化理念を説いたり、道路や建物や環境整備のために貴重なエネルギーと税金を費やす前に、その予算をそっくり芸術家とこれから芸術家たらんとする卵たちの活動援助資金として欲しいということだ。五〇〇億円の六甲山洞窟ホール建設するよりは、五〇〇年間一億円づつ毎年芸術文化活動を助成した方がずっとよい。芸術不可欠認識に欠ける高尚な理念や立派な施設の建設で育つのは政治家や土建業者であって、芸術家ではない。

神戸新聞掲載原稿/1999.6