アジアの音楽にもっと耳を

 神戸は、アジアの人々、特に中国人、朝鮮・韓国人、インド人などが混ぜんと住む、日本でもユニークな香りを持つ都市である。わたしは、こうした神戸の独自性をより生かす意味で「アジアの音楽シリーズ」を昨年から開いている。来る十一月十六日夜半から十七日未明にかけてのオールナイトコンサート、「アジアのスーパーフルーティスト」は、その第三回目である。このシリーズの基本的な考え方は、日本とアジアの伝統古典芸能を同時に視聴することで、その違いと共通点を理解しようと言うことである。また、同様な発想から、神戸発のエスニック(この言葉はあまり好きではないが)レコードの自主制作も始めた。
 わたしたちは、先に挙げたアジアの人たちと長いあいだ隣人として住んでいるにもかかわらず、互いの文化的な交流が少ない。食文化においては、神戸は充分にその独自性を示してはいるが、こと芸術文化の面では、決して誇れるような環境ではない。音楽文化に限って言えば、相変らず西洋古典音楽は「高級」であり、アジアの隣人たちの長い伝統を誇る素晴らしい古典音楽は、未だに「変った」「珍しい」ものとしてみなされている。
 この六月、シリーズ二回目の「エキサイティング・ガムラン+和太鼓」というコンサートを、ポートアイランドのジーベックホールで開いた。さいわい、三百人しか入れないホールに延べ五百人以上の人が聞きにくるほどの盛況だった。神戸からの人は意外に少なく、大阪や大阪近郊、京都の人が多い。遠くは岡山、静岡からの人もいた。このコンサートは集客という意味では成功だったと言えるが、採算性から言えばスポンサーの協力抜きには成立たなかった。一定の水準を保ち、かつ入場料の安い演奏会を目標にしているので、当然、なんらかの援助がなければ、興業的に採算は取れない。
 このコンサートでは、インドネシアの企業(以下G社)が、スポンサーであった。G社の協賛金は、日本的基準から言えば大きな金額とは言えないが、インドネシアの労働者の年収分にあたると聞いた。
 G社にとって、遠く離れた日本の小さな催しへの協賛は、実質的に何の利益にもつながらない。にもかかわらず、インドネシアのためになるならば、と快く引受けてくれた。
 神戸在住企業にも協賛依頼に回った。しかし、どの企業も協賛を断った。理由は、協賛するメリットがないと言うことである。この種の催しは公官庁がバックアップすべきだ、と言う企業もあった。アジアものではねえ、と言う人もいた。結局は、よく分らないもの、投資効果がすぐ期待できないものには金は出せない、と言うことである。
 さすがに日本は世界に冠たる経済大国であるとヤケクソに納得した。経済大国では、利益につながらない投資はしないのだ。また、先のことは分らないからという論理で、すぐ目に見える投資効果しか計算しない。したがって、歌舞音曲にゼニを出す、なんてことは、それがイメージアップや商売にならない限り無駄な投資なのである。このごろ流行の、企業利益の社会への還元だとか文化振興云々を標榜する冠コンサートだってちゃんと計算してやっているのに違いない。社会への還元と、文化振興を真剣に考えているのなら、あんなに高い入場料は取らないはずだ。無駄なゼニをいっさい使わず、さらなる利益を追求する、これが経済大国の秘訣なのだ。ふむふむ、そういうことなのだ、などとわたしは弱々しい独り言をつぶやきつつ、妙に悲しく切ない気分を味わい、一方、企業メリットなどと一言も言わずに協賛してくれたG社の心意気に感動したのであった。
 わたしは、ここ二年、バーンスリーの修業のため毎年インドに行っている。普段つきあうのはインドの人であるが、たまに、現地に赴任している日本企業の人たちと話をする機会もある。彼らと話してつくづく感じるのは、現地の文化に対する無関心、そして現地の人々に対する尊敬の無さである。こちらから尊敬しなければ当然、相手だって尊敬はしない。この加速的相互不尊敬状況がますます進行しているように思える。現地の人とは商売以外の深い交渉はしない。メリットがないじゃない、とはっきり言う人もいた。こんな人間関係の中に相互尊敬の余地はない。このようなことは、おそらくインドだけではなく、他のアジア、また非西洋の国々でも変らないと思う。
 わたしたちは、こちらから出かけて行かなくとも日常的にアジアの人々と接することのできる神戸に住んでいる。大阪や東京の人が、神戸へ行けば、おいしい中華料理やインド料理ばかりではなく、素晴らしい非西洋音楽も安く日常的に聞ける、ということになれば、加速的相互不尊敬状況もすこしは解消されるし、神戸も捨てたものではないと人々は思うに違いない。そんな思いで、毎回スポンサー探しに明け暮れながらコンサートを開いている。

神戸新聞1990年11月2日朝刊掲載原稿