神戸新聞を読んで3--重複さけたい情緒的表現

 今年が阪神淡路大震災後十年という節目であること、また昨年から新潟県中越地震、スマトラ沖地震とインド洋の津波と大災害が立て続けに起きたこともあり、ここのところ「震災」や「防災」にかかわる記事を見ない日がなかった。連日「震災」の文字を目にするのでちょっと気になり、二月一日から十五日の半月間にいったいどれだけの阪神淡路大震災関連の記事があったか数えてみた。実に七十六本、平均して一日五本である。他の全国紙のすべてに目を通したわけではないが、おそらく「震災」という一つのトピックでこれだけの記事量を誇るのは神戸新聞だけであろう。
 どの記事も新聞社として掲載の必然性があったと思いたいが、同種の内容が重なっていたりすると、ちょっと疑がってみたくもなる。たとえば二月一日付朝刊では、「センバツへ 兵庫は2校」(一面)の「関連記事」と断っているとはいえ、地域面(神戸版)の「神戸国際大付と育英センバツ出場 野球ができる喜びかみしめて 震災十年の節目の年に」に続き、そのすぐ裏の社会面にもまた「震災越え球追う喜び 感謝胸に挑む大舞台」と題された記事があった。内容は、多少異なるとはいえ、どちらも「野球ができる喜び」「球追う喜び」と重複している。
 あの大震災は被災した誰にとっても大惨事であった。失われたものは取り返しようがない。今年は特に節目の年でもあり、新聞社としても力を入れて取り組んでいるのだと思う。しかし、この例のような重複する情緒的な記事の掲載にはどんな積極的な意味があるのだろうか。悲しみや痛みさえもがただ消費されるものになっているような気がする。
 折しも二月一五日付夕刊は、兵庫県が「復興本部」を廃止したと一面で報じていた。これは、目に見える形での「復興」事業に行政としてひと区切りつけようという意味だろう。
「辛かった」「震災がなかったら一緒に楽しめたと思うと無念だ」「炊き出しが懐かしい」などといった感情は、被災地の社会や被災者個人に切実なものである。そうした感情をいつまでも共有し、語りたい気持ちがあるのは当然だ。しかし、あえて言いたいのだが、目に見える形での「復興」に区切りがつけられるように、そうした感情的な側面においてもある区切りをつける時期に来ているのではないか。
 今こそ悲嘆を乗り越え、震災体験を通してしかなし得ない、かつ震災と関わりのない人々もが後世まで共有できるような、普遍性のある人間活動が生まれていい時である。
 第二次大戦や、ヒロシマ、ナガサキの体験から力強い芸術作品が生まれたように、阪神淡路大震災からもそうした創造の芽が頭を出していないかと、大量の震災関連記事を読みつつ思った。 (音楽プロデューサー)

神戸新聞2005年2月20日朝刊掲載原稿