神戸新聞を読んで4--地域性超えた議論の紹介を

 前回は、震災関連報道のなかに見られた情緒的な取り上げ方が気になったと書いたが、もちろんそうした記事ばかりではない。
 二月一七日朝刊の文化面で、震災の記憶についてのシンポジウムがあったことや、それに関連した専門家の意見が報じられていた。アーティストも参加したこのシンポジウムでは記憶と表現行為の関係も議論され、「報道や一部の震災美術展などは自己表現」という新しい視点も紹介されていて興味深かった。震災を題材としつつも地域性を越えた、このような議論はもっと紹介されていい。
 阪神・淡路大震災のような大きな厄災があるたびに、人はその厄災の全容、それによって生じた社会や個人生活の変化、復興の過程を記録し、そこから何かを学習しようとしてきた。記憶や記録は、同様の厄災に見舞われたときのより有効な対応のための学習材料として確かに役立つ。同記事でコメントをよせていた水野博子氏の「集合的記憶の主体はだれか」に則していえば、記憶の主体は、漠然としているが、社会全体といっていいかも知れない。
 記憶のもう一方の主体はもちろん個人である。中でも個々に表現活動を行うアーティストにとっての記憶は、社会全体にとってのそれとは違い、創造の胚となっていくものである。
 私は、震災をきっかけに生まれた国際的なアーティスト連帯組織、アクト・コウベの活動に当初から関わってきた。この活動の過程で仲間たちと議論になったのは、それぞれのアーティストの表現行為と震災との関係であった。アーティストの表現活動は常に人間の本質に向かう。震災体験から抽出された人間の本質にどう立ち向かい、作品として結晶させるか。無力感の中でわれわれが問われたのはこのことだった。「被災した」神戸のアーティストにいち早く連帯の意思表示をしてくれたフランス人アーティストたちは、先の問いかけに対してフラジリテ(壊れやすさ)、ソリダリテ(連帯)、クリエイティビテ(創造)という三つのキーワードを提示して応えた。彼らは現代社会においてモノや生命や関係がいかに壊れやすいかを改めて確認した上で、震災はそうした状況の象徴だととらえたのだ。今年もフランスから数名のアーティストを招待して共同作業をする予定だが、このような本質的な認識を共有することが、その後の彼らとの交流活動につながっている。

 震災から十年を経ても報道すべき多くのことが存在するのは、それだけ社会的記憶の集積が必要だということであろうが、私はアーティストたちの震災体験の直接・間接的な記憶が今後その作品にどう反映されていくのかにも注目していきたい。 (音楽プロデューサー)

神戸新聞2005年2月27日朝刊掲載原稿