インド遊学から帰ってきた

 去年の6月、2年半のインド遊学から帰ってきた。ガンジス河の沐浴で有名なヒンドゥー教の聖地バナーラスの大学で、インド音楽鑑賞科に在籍していた。学生は、われわれ日本人の他にイタリア人、アメリカ人、タイ人などで、もともとこの科は外国人にインド音楽を理解してもらおうと開設されたものだ。大学とは別に、バーンスリーという竹の横笛を習った。
 インド音楽の非常に不思議な響きは、せわしなく生活しているわれわれにストイックな気分を与えてくれる。それは、日々いだく人間的感情を超えた、何か泰然としたものだ。インドは、自然や社会環境の厳しいところだ。あまりに過酷な苦しさ、それが一時的なものでなく永遠に続いていくように感じられるとき、人々はそのいちいちの苦しさの解消をあきらめ、逃避し、人間を超えたものの存在として神を考え出す。神の存在を考えたとき、こんどはあらゆる事物は神に結びつけられる。インドは神々の氾濫する国だ。
 インド音楽が、人間の喜怒哀楽を直接に表現しないのは、それが神と分かちがたく結びついているからなのだろう。音楽の響きだけに限らず、演奏にとりかかる前や終わった後の動作も、何か宗教的な行事を思わせる。気楽に音楽を習おうと思っていたわたしは、先生(グル)が次のようにいったとき、こりゃ大変なことだなと思ったと同時に、音楽とはこういうことなのかと、認識を新たにした。
「音は見えるべきだ。ただ、見えるようになるには、バクティ(神への無私のの愛)がなくてはならない。演奏者は無我になることによって、自分の出す音で「絵」を描くことができる。聴衆はその「絵」がどんなものか時間を追って見るように努める。そこに音楽的な共感が生じる。音楽は、『正しい認識』を通して宇宙原理を把握する方法だともいえる」
 また、あるときはこうもいっていた。
「最初のゆっくりしたパートは、神々を導き出す過程だ。一つの音から次の音へと上昇させ最高点に達すれば、あとは神に任せればよい」
 わたしの先生(グル)は、大学の中で電気技術者として働いている40代の普通の勤め人だ。プロの音楽家でもなく、哲学者でもない。彼にとっては、収入が生活が苦しいことや、職業や、他もろもろのことは、取るに足らないことなのかも知れない。他人との比較と物質欲に忙しいわれわれの社会を考えたとき、先生(グル)の質素な生活と、一見それにそぐわないような「哲学」が実は大事なんだ。と思うことがある。

月刊『神戸っ子』1985年掲載原稿