日本語を習うインド人

 ボンベイ滞在中、天理教ボンベイ支部の佐々木さんに大変お世話になったことは前回の通信で触れました。佐々木さんの普段の活動は、インド人に日本語を教授することです。現在二十数名の生徒が通って来ています。上達度に合わせて数人づつのクラス編成をとっていて、上級クラスでは、通訳や翻訳など、日本語をすでに職業として使っている人もいます。それぞれ個性の強い生徒たちを指導するのは並大抵ではありませんが、佐々木さんは根気よく頑張っていました。わたしは、ほぼ毎日佐々木家で寄食していましたから、生徒たちと接することも多かった。

 日本語弁論大会

 ボンベイの日本語を習っている人たちが最も張り切るイベントは、確かボンベイ印日協会主催の日本語弁論大会です。あまり詳しいことは知りませんが、テーマは出場者の程度によって異なっているようです。初級者の場合は、既に文章が決まっていて、それをいかによどみなく読みあげるかが審査の対象になります。ですから、出場者は、大会が近づくと課題の暗記に忙しくなります。そこで彼らは、アクセントやイントネーションを覚えるために、われわれに模範録音をせがみにやってきます。厚かましい人もいて、こちらの時間などおかまいなしにやってくるのです。本人たちの理解度を超える文章というか、われわれ日本人ですらすっと意味の通らない文章もありましたが、彼らはそれをひたすら暗記しようと躍起です。まあ、初級者にとっては、中に意味の分からない単語が多少あっても暗記することが先決だから、読みかたのコンテストというのは良いことだと思います。ちょっと気にかかったのは、課題文の内容でした。課題の一つに、七夕の物語、つまり織り姫と彦星の物語がありました。制限時間があるためか、ざっとあらすじを追った短い文章なのですが、はしょりかたが不自然で、変てこな飛躍があるのです。どう考えても、日本語教授のプロが出題しているとは思えないものでした。

 フリーテーマの上級者

 上級者になりますと、自分でテーマを考えそれを日本語で発表しなければなりません。わたしは、日本語の翻訳やっているという若い女性、フィルさんに相談を受けました。彼女は昨年の入賞者です。聞いているようでいて、その実ちっとも他人の話を聞かない頑固な自己主張確信断定派ですが、頑固に日本語を勉強する根気にはどこか欠けているボンベ都会派ヤングレディーです。
 最初、こんな文で発表しようと思うのだが、と見せられたのを読んでみると、日本についての一面的なきれいごとを断定的に並べたものでありました。文法的混乱を整理して読んでみると、要旨はざっとこんなものです。
「日本は、挨拶の習慣がある。社長ですら、社員には、おはよう、今日は、と挨拶する。今日、日本は素晴らしい経済的な発展をみた。経済的発展の一因は、こうした良い伝統を捨てることなしに経済活動をやったからなのではないか」
「社長ですら・・・」という文章は、インドの実状からするとなんとなくうなづけるような気がします。なぜなら、社長ないし会社の幹部が、労働者と半ば対等に挨拶を交わすことは、インドでは希だと思うからです。会社の幹部と労働者の間には、カーストなどの圧倒的な階級差があります。
 しかし、こういう文章を読むと、わたしはむらむらと意地悪心が沸いてくるのです。
「フィルさんは、日本人の社長が挨拶するのを見たことがあるや否や」
「ありません。でもなんかの本に書いていましたし、それは正しいと思います」。(なぜ正しいと断定できるのだ!)。フィルさんはまだ日本に来たことがありません。
「しからば、なにゆえ、見たこともないのに正しいと言へるのか、問ふ。あなたが本当に見たり聴いたり体験したりしたことなら、この文は良ひと思ひますが、さうでないのに、かように断定的に述べるのはいかがかな。それに主題としては、あまりに大きすぎる。もそっと身近に、自分自身が体験したことを書いた方が良いと思ふがいかが」
「実は、これは知り合いの日本人に書いてもらったんです。でもお、これからまた書き換えるには時間がないんです。わたし、どうしよう」
「佐々木さん家族とか、他の日本人に接して、どこが自分たちと違ふかを書いた方が弁論としてはオリジナリティーはあるんぢやあないですか、いかが」
「例えばどんなことですか」
「と言われてもね。だって、あなた自身の感じかたですからね」
「困ったなあ。もう時間が・・・。例えばこんな、というのを教えてください」
 彼女は必死である。そして、しぶとく粘っこい。佐々木家の夕食が迫りつつあった。めぐみ夫人が様子をみにときどき顔を見せる。もう、いい加減にして夕飯にしましょ、と言いたげな表情なのでありました。空腹も重なり、だんだんわたしも面倒になっくるのでした。しかし、敵はひるむ様子を見せない。
「例えばですね、この折り紙なんてだうでせうか。これやったことありますか。日本では、子供でもきれひに折ることができますが、よその国の人にとっては難しいらしい。手先の器用さがあるんだと思ふのである。そこで、書くとすれば、と。んー。自分もやってみたがどうもうまく折れない。仮に、この後半部を生かすとすれば、まあ、例えば、日本人は手先が器用であるが故に、発展したのではないだらうか。それには、この折り紙も一役買っているのではないか。なあーんていうことでもいいんじゃないですか。いかが」
 スカーフをヒラリと肩にかけなおし、フィルさんは即座に英語で答える。
「それいいですね。じゃあ、それにします。もう一回、きちんと文章にして言ってください。わたし書きますから」
「えっ、そんな」
 しかし、気を取り直して、わたしは言うのでした。「しかれども、これはあくまで例である故、自分で考えてみてはいかが」
「んもー、ホントに時間がないんです。それに、わたしもそう思いますから」
 しかし、そう言う割に、わたしが渡した色紙をもてあそぶだけで折ってみる気はないそぶり。
 結局、彼女は、わたしの言う通りの文章を引っ提げて弁論大会に臨んだ。しかし、暗記が不完全ということもあって今年は入賞しなかったのでした。

 日本語習得の動機

 佐々木さんに相談している他の生徒たちも、フィルさんのような、日本人審査員好印象期待的、こびたと言えば言いすぎかもしれないが、日本礼賛テーマが多い。しかも、日本人の知り合いが手助けして、そのような文章を書くこともあるのです。人間、生活、文化と言ったことよりも、とにかく経済的に発展したという一点を強調する。自己主張の強いインド人、という思い込みの強かったわたしは、彼らに、オリジナリティーのある切り口で日本を論ずることを期待していたのですが、どうも期待外れだったようです。
 日本語を習っているのは、中流から上流の家庭出身の若い人たちです。彼らも、あこがれの内容の差はあれ、英語を習う日本のおおかたの若い人たちと同様、オリジナリティーが乏しいと感じたのでした。どんなに外国語が堪能でも、自分の意見をもたないならば単なる翻訳機械にすぎない、ということが分かっていないのではないか。もちろん、インドを始めアジアの人々にとっては、日本語を習得すれば、かなり割りの良い仕事につけるということが最大動機になっているので、しかたがないのかも知れません。彼らの動機も、結局有利な仕事につけるから、というものでありました。それにしても、ボンベイの日本語弁論大会出場者の弁論テーマが、ほとんど日本経済発展礼賛のワンパターンになっていることに対して、それらを審査する日本人はいったい何を考えながら入賞者を決定しているのだろうか、と考えるわたしなのでありました。

サマーチャール・パトゥル第6号(1989)より