神戸と音楽

 サウンドスケープという言葉がある。これは、土地の景色や景観を特徴づけるランドスケープと対比して使われる。つまり、ある土地が他と異なる独自の景観をもっているように、独自の音をもっているという考え方である。たとえば、ある時間になればアザーン(イスラム教のコーラン詠唱)が聞こえてくる中東の街や、祇園祭になるとコンコンチキが街中に溢れる京都、ポップス音楽のかまびすしいインドの街など、その土地を特徴づける音あるいは音楽である。その音を聞くと、その土地の情景が浮ぶものである。
 このような音ないし音楽には、日常生活とは分かちがたいメッセージ性がある。人々はそのメッセージを聞くことで、その土地に住んでいるのだというアイデンティティーを確認するのである。
 では、神戸のサウンド・スケープはなんであろうか。わたしは神戸に住んで一四年になるが、神戸という街を特徴づける音を思い浮かべることができない。船の汽笛があるではないか、という人がいるかもしれない。しかし、汽笛はどの港街にも共通している。ジャズがあるではないか、という人もいるだろう。しかし、ジャズはもともとアメリカ黒人の抑圧された叫びから発しているわけで、そうした叫びとは無縁な神戸のジャズは、切実なメッセージ性のある音楽ではない。神戸祭のサンバも元は南米の音楽であり、所詮借物でしかなく、あれが神戸の伝統だなどといえば、本家が怒るだろう。神戸でしか聞くことのできない音ないし音楽は、実際ないのである。
 このように神戸の街には、特徴のあるサウンドスケープは見当たらないが、音楽はそこらじゅうに満ち溢れている。センター街を歩くと、そこがいかに音楽に満ちているかがよく分る。クラシックあり、ロックあり、イージーリスニングあり、ジャズあり、邦楽あり、ポップスあり、フュージョンあり、テクノあり、ラップありと、季節や時間と関わりなく、とにかくあらゆるジャンルの音楽が同時にしかも混ざり合って流れてくる。レストランや喫茶店に入っても、客の意向とは関係なしに音楽が流される。まるで無音楽空間不安脅迫観念というものにつき動かされているとしか思えない。音楽のない空間が恐怖なのである。人間の耳は便利にできていて、都合の悪い音や関心の薄い音はある程度無意識に遮断するのであるが、音楽に関わっている私としてはこうした状況はときに耐えがたい。
 これほど音楽に満ちているにもかかわらず、またそうであるがゆえに、人々の音楽に対する感受性は鈍いのではないかと思う。神戸では、音ないし音楽がある種のメッセージを伝える手段たりえず、水のようにたれ流すものであり、消費されるものであるかのようである。
 一日でよいから、神戸の街中に流れている音楽のすべてをカットしてみてはどうだろうか。案外、神戸のもつ特有のサウンドスケープが浮び上がるかもしれない。

『迷図』1992年掲載原稿