非インド人はインド音楽演奏家になれるや否や

 このトピックは、カルカッタの友人、アミット・ロイの家にしばらく居候していたとき、彼と毎晩徹夜で論議したものの一つです。アミット・ロイ(以下バッチュー)は、シタールの若手演奏家で、父は有名なシタール製作者、ヒレン・ロイ。
「外国人がインド音楽演奏家になれる可能性はあるかって?なれるとも。良い演奏、素晴らしい演奏とはどういうものかが分かれば、つまり耳があり、かつ練習を持続できたら、誰だってインド音楽の演奏家になれる」
 そのときは、わたしはバッチューの言葉に半ば納得してうなずいた。自分も、現在やっているバーンスリーを、それなりに人に聴かせる程度にはなりたいと思っていたし、また彼の言葉のように考えなければとても続けることができない。
 良い料理人になろうと思えば、何がおいしくて何がまずいかをまず知らなければならない。つまり、良い舌をもつことが良い料理人になるための必要条件である。もちろん、おいしいかまずいかの基準はあくまでその料理人個人のものだが、他人にも通じる普遍的な味覚をもっているからこそ、彼あるいは彼女は、良い料理人たりうる。同様に、よい演奏家は、おいしい演奏とまずい演奏の違いが分からなければ話にならない。

 練習の倍の時間を聴く時間に

「とは言っても、インド音楽にはインド独特のテイストがあるでしょう。あれはなかなか外国人には難しいのではないだろうか」
「当然だ。われわれは子供のときから聴いているから親しんでいるが、外国人は聴く体験の量がまず違うことは認める。しかし、美しい音楽には国の違いなんてないだろう?」
 外国人が、毎日3時間を練習に費やすとすれば、その倍、つまり6時間を聴く時間に充てれば良い、とバッチューは言う。そのでんでいくと、わたしはハリ・プラザド・チョウラシア師の通告によって「1日最低4時間は練習する」ことになっているわけだから、8時間の聴く時間を入れて1日12時間をインド音楽に捧げなければならないことになる。
 ハリジーの通告すらまともに実行できていない現状としては、まず実行は不可能に近い。こんな、一方通行的非営業個人通信なんて書いているヒマはないのだ、プロのトップミュージシャンになるためには。ニュースステーション+プロ野球ニュースで2時間もテレビの前に寝転んでいるヒマはないのだ。キンピラごぼうとこまつ菜、もやしのナムルを作っているヒマはないのだ。ブライアン・イーノを聴きに天川村まで行くヒマはないのだ。家庭教師の子供の模擬試験を作るのに4時間もかけてはいけないのだ。ブルガリアンポリフォニーいいなあ、ガムランいいなあ、鼓童いいなあ、ビートルズいいなあ、エンヤいいなあ、などとレコードを聴いているヒマはないのだ。ダイ・ハード+レッド・スコルピオンの2本だてをパルシネマで見るヒマなんかないのだ。フレッド・テイラーの「総統暗殺(上下)」なんて読んでいるヒマはないのだ。パチンコであっと言う間に3000円負けた、と悔しがるヒマはないのだ。川島四郎著「まちがい栄養学」(正、続)を読むヒマはないのだ。ましてや、長時間たばこプカプカチーポンロンリーチリャンウーパー3面待ちウラドラ2つバンバン、なんてやっているヒマはないのだ。とにかく、ヒマはないのだ。プロのトップクラスミュージシャンになるためには。

 徹底的なヤル気とヒマがあれば

 非インド人がインド音楽演奏家になるための第一条件は、だから、感受性と同時に、生活の糧を得るための諸活動、せつ那的肉体的精神的快楽追及活動、気分転換的消費活動などなどを制限することがまず必要だろう。つまり、徹底的なヤル気とヒマが必要。もう、楽器を弾くぐらいしか時間を潰しようがない環境を整備すること。われわれがインドで2年ほど暮らしていたときは、感受性は別として、かなりそれに近かった。だから、相当な長期間生活するに足る充分なゼニを持ちインドで生活するのが、インド音楽演奏家になる最も近道だ。ここをクリアーできる非インド人は、多いとは言えないが、存在可能であろう。
 また、社会が必要なら、そういうことを望む人材を援助しようとするだろう。どうも日本の社会は、まだまだ徹底してマイナーなインド音楽は当然としても、一般に、芸術を必要としているとは思えない現状である。人と人との比較によって自我を安定させるこの社会では難しいのかも知れない。従って、練習を持続したり、インドへ行って先生についたりするためには、かなりの時間、自力でゼニをためるということに頭を悩まさなければならない。

 表現力

 次に問題は、いかに感受性と捧げられる時間があったとしても、表現力が無ければ良い演奏家にはなれない。表現力は、もちろん、技術の蓄積に因るところが大きい。しかし、美しい表現をする力は、テクニックでは補いえない部分がある。ある種の才能が必要だ。あるものへの集中力を持続することは才能の一つだとは言えるが、努力の人が、ポッと出の才能のある人に、難なく道を譲るという例は少なくない。とは言え、これまでの経験として、次のようなことが言えるかも知れない。最も感受性の鋭い人生のある時期に、盲目的にあるものへ集中できるかどうかが才能を決定する、と。
 優れたインドの演奏家に直接聞いたり、本で知ったりしたことによれば、彼らのほとんどは、1日十数時間などという猛烈な練習を幼少期から青春期にかけてなさっていらっしゃるのである。天才と呼ばれ、現代の最も素晴らしいシタール演奏家であった故ニキル・ベナルジー氏は、練習室の外から錠をかけさせ、不眠不休の練習をしたそうだ。この話は、自身も試みたことがあると言うバッチューがしてくれた。ちなみに、バッチューは故ニキル・ベナルジー氏の最後の弟子である。
 最も感受性の鋭い人生のある時期に、かくも過酷な訓練を年単位という長期間、自ら強いるという点になると、当のインド人ですらごく限られた人が可能であって、ましてや非インド人であるわれわれには決定的とも言えるぐらい困難なことだ。30過ぎてインドの楽器を始めたわたしのような人間には、インド音楽以外の精神的肉体的快楽を既に捨てきれない段階に来てしまっているし、またその種の誘惑にやすやすと乗ってしまう。レコードを聞けるとは言っても、日本に住んでいるかぎりインド音楽に対する感受性は鈍る一方だし、1日十数時間も練習に没頭する気力も体力も、はっきり言ってない。

 結局、思うに

 インド音楽の演奏という面で、非インド人とかインド人とかの、“血”や“民族”の違いはそれほど大きな問題ではない。環境、気力、体力、感性、表現力があれば、非インド人がトップクラスのインド音楽演奏家になることは不可能ではない、と思う。バッチューの意見は正しい。しかし、最も感受性の鋭い人生のある時期に、異なった環境で異なったことをやっていた人には、その人しかもっていない感受性や感性や表現力があるわけだから、外国の楽器や表現方法を学習したとしても、それらを生かす道はあるのだ、とわたしは自分を慰めるのであった。

サマーチャール・パトゥル第6号(1989)より