バギオ(フィリピン)のカリンガ族の楽器を習う

 9月の京都芸大集中講義のとき、日本からインドまでの地図を学生に書いてもらいました。精度はまちまちでしたが、一つだけ共通点がありました。それは、全員の地図にフィリピンが抜け落ちているのです。どうも、彼らにはフィリピンの印象はとても薄いようです。わたしも実は、2年前にAFOツアーでマニラへ行く前までは、彼らと同じでした。
 そのフィリピンへ、5月の連休のあと、河内長野市ラブリーホールの宮地泰史さんと行きました。目的は、バギオ市に住むカリンガ族のアーネル、エドガーのバナサン兄弟に会い、彼らの竹の楽器の製作や音楽を習うことでした。
 この兄弟を知るようになったきっかけは、南浦和に住む友人の映像作家、鎌仲ひとみさん、通称カマチャンの借りている家のオーナーが、アーネルの奥様、反町真理子さんだったからです。そして、なんと都合がよいことに、アーネルはカリンガ族出身のミュージシャンだったのです。
 カリンガ族の竹の楽器による音楽は、ホセ・マセダの『ドローンとメロディー』(高橋悠治訳、1975)や、『ウドゥロッ・ウドゥロッ』(30人から数千人にいたる演奏者のための音楽)という作品、ビクターから出ている映像『世界民族音楽大系』などでなんとなく知ってはいました。しかし、直接フィリピンまで出向いて、楽器や音楽に触れたのは今回が初めてです。

バギオ市

 彼らが住んでいるのは、マニラから車で7時間ほどかかる山上都市、バギオ市です。ねっとりとした暑気の充満するマニラに比べて涼しく、海にも近いため新鮮な魚介類や、野菜も豊富です。坂なりに展開する中心街の混雑した市場には、道の両側に魚や野菜を売る小さな店がびっしりと連なり、買い物客であふれかえります。またここは、フィリピンの金持ちたちの別荘地としても有名で、広壮な別荘があちこちに点在しています。全体の雰囲気としては、イギリス人たちの開いたインドのシムラーやダージリンといった植民者避暑地を思い起こしました。
 熱帯の土地にいることを忘れさせる避暑地ですが、コルディレイラといわれる山岳地帯からの人々の流入、無計画な乱開発などで問題も多いようです。排気ガス規制などてんで関係のなさそうな自動車の多さによる大気汚染が強烈です。また、水問題が深刻です。なにしろ山のてっぺんに開かれた町なので常に水不足です。家々には必ず雨水を貯めるタンクがあります。アーネルたちの家では、バケツに貯めてある水を使ってトイレやシャワーに使い、飲料水は買っているということ。

カリンガの楽器と音楽

 バナサン家にはそのとき、アーネル・真理子夫妻、アーネルの弟エドガー、長男アラシ、次男ビリク、生まれたばかりの長女キカ、ひょろっとしておとなしいローウェル、大学で観光学を学ぶ18歳のリオの8人にわれわれが加わり、総勢10人いたことになります。またときには、カリンガから元気なお母さんがやってきたり、9歳の息子ミラを連れたアーネルの姉のジョスリンなどもやってきて、とにかく出入りの忙しい家です。
 さて、居候のわれわれは、毎日、楽器素材である竹を近所の山に行ってとってきたり、楽器を作ったり、それで音楽を習ったりしたのでありました。
 かつては首狩り族であったというカリンガ族の音楽は、実にシンプルです。いろいろな形の楽器が竹から作られますが、音楽の基本はすべて同じです。一人一人は、単純なリズムパターンを繰り返すだけです。ソロ演奏はありえません。必ず、6人が一組になって演奏される。ただし、全員で同時に打ち出すのではなく、同じパターンを次々に半拍ずつずらす。すると、単純なリズムパターンは錯綜したうねりをもってくる。半拍ずつずらす、というのは最初はなかなか把握できませんでした。しかし、慣れてくると全体の音のうねりに埋没していくような、トランスにおちいるような気分になるのです。アーネルは「カリンガの音楽を楽しむには、友達にならなければならない」といってましたが、まさにその通りで、一人だけ目立とうとするとたちまち調和が崩れ去ってしまう。個人の技術や表現力だけが重要なインド音楽とは対極にあるといえます。

バギオからマニラ

 カリンガ楽器徒弟生活のバギオから、お土産の野菜をもってマニラのグレース・ノノの家に4泊、居候しました。彼女は、AFOツアーでずっと一緒だった素晴らしい歌手です。不快指数100点満点のマニラだというのに、家にはエアコンがなく、しっかりと熱帯生活を満喫しました。彼女の家ではほとんどなにもせず、つい最近演奏活動を再開した夫のバークレー卒ギタリスト、ボブ、グレースのそっくりコピーである娘のタオとおしゃべりの日々でした。
 日曜日、グレース一家と映画を見ようとメガモールへ行きました。メガモールは、巨大なショッピングセンター。エアコンギンギン空間なので、涼みに来る人たちでいっぱいでした。なかに映画館がかたまったフロアがあり、われわれは、そこにトイレ近辺で何を見ようかと午後4時ころ相談をしたのでした。次の日曜日の同じ時間の同じ場所で、時限爆弾が破裂し死亡者を出したことを知ったのは、帰国して10日ほど後のことでありました。フィリピンもなかなかにスリリングなのです。多民族、他言語、政治腐敗、富の分配の不均衡。フィリピンに限らず、植民地であったことで今もってひきずる問題の解決はかなり遠いようです。
 カリンガ青年、アーネル、エドガーそして真理子さんと子供たちは、8月に来日し、十津川村で盆踊りを楽しみ、大阪のトリイホール、神戸のジーベック、河内長野でそれぞれワークショップを行い11月に無事帰国しました、と書きたいところですが、エドガーだけが国内で行方知れずとなり、現在もどこかで不法滞在者としてふらふらしている模様です。たくましいというのか、近代法治社会的よりも部族社会的原理に基づいて行動しているかのようです。

サマーチャール・パトゥル第27号(2001)より