サイパン旅行

 われわれにはおそらく一生縁がないと思っていた大衆リゾート島、サイパンへいってきました。サイパンはアメリカ領ということになっているので、生まれて始めてアメリカに行った、といっていいかもしれません。それにしても、なぜサイパンなのか、というような顛末も含め、帰国してから、以下のような文をだらだらと書きましたので紹介します。

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 サイパン島は、なぜか哀しい、という話。

なぜサイパンか

 今回の旅行は、別にサイパンでなくてもよかった。山形の母親が「おらどごさも外国さ行ったごどねのに、おめばりしょっちゅう行ってえごでね(英訳:I have been listening so far only that you went to many places. Yet I have never been anywhere.)」などと帰省するたびにいうものだから、まあ、「親孝行ツアー」のようなものをやろうということになった。
 たしかに彼女の訴えも分からないでもない。父親は、戦時中に住んでいた中国の東北地方や、勤めている会社の慰安旅行で香港に行ったことあるが、71歳の母親はこれまで海外旅行は一度もないのだ。どうせ今年は二人とも無職に近い状態でヒマだし、これまでほぼまったく「親孝行」らしいことはしてこなかったし、彼らが動けるうちに一度海外旅行に連れていくのも悪くない、と考えたわれわれは、山形のわたしの両親と明石の配偶者の両親もまとめてツアーを組む、という大決断をしたのでありました。
 スポンサーであるわれわれには、いくつかの制約と願望があった。まず、非潤沢予算であること。身体不調常時他者理解願望のわたしの母親や両親たちのそれなりの高齢を考えると、飛行時間はできるだけ短いこと。旅行生活中いちいちに渡って面倒を見るようなツアーコンダクターになりたくなかったこと。こうした条件を満たした上で、かつ「海外旅行に行ったあ」という充足感を彼らに味わってもらう場所。当初、最も手軽で安い香港や韓国ということも考えた。しかし、ほとんどわれわれと変わらない顔つきの国では、彼らにとって「海外」のありがたみは少ない。シンガポールではちょっと遠すぎるし、あそこはほとんどダイエー的消費都市。消費促進勧誘だらけで面白味がない。バリ島は、われわれには大変に魅力的だが、同じく遠い。
「どこがよいか」といちおう彼らの願望を聞くと、全員「どこでもよい」と答えたが、両母親の心中には「みんなが行くから」ハワイがいいかな、という願望もあったようだ。しかし、「ハワイはよいが、何時間も飛行機に乗らなければならないから老体ではきつい。行っても日本人だらけである。ハワイに行って何をするというのだ」と、われわれは説得につとめた。実際は、行くこと自体が通俗の極みのようで、われわれが行きたくなかった。
 こうしたもろもろの条件が厳しく吟味された結果(てなことないか)、サイパン、になった。実は、一番安い、しかも、いちおうアメリカ合衆国に属する、ということでほとんど吟味せずに安易に決めたのでありました。われわれだけであれば、一生のあいだ決して行くことはなかったであろう場所である。
 場所が決定されれば後は簡単である。両親たちにパスポートを揃えてもらう一方、安そうな旅行代理店にホテル宿泊付きパッケージツアーの申し込みをして準備は滞りなく進んだ。代理店からは、さまざまなパンフレットとともに、ツアー名称の書き込まれたバッジ、荷物用タグなどが届いた。バッジとタグは、「つけなければ」といい出しかねない両親たちの目に触れないように、ひっそりと荷物の奥底にしまい込んだ。

中高年男女のリゾートファッション

 さて、るんるん気分の両親たちとわれわれは、関西空港で航空券を受け取り、入管ゲートを難なくすり抜け、離陸2時間前にはすでに搭乗待合い室で待機状態となった。
 わたしが、ここ10数年来愛用しているぺたぺたコットンの黄色のズボン、Tシャツ、夏用のジャケット、フィラのつばつき帽子、黒い運動革靴+震災時大活躍の小型黒色リュック、配偶者はベージュのパンツスーツ、オーストラリア出張のときに購入した麦わら帽子にレイバンのサングラス、リーガルの水色のズック+茶の横長バッグ、山形の母親は、白い裾長シャツの上に白黒まだらレース風の割と派手な上っ張り、裾細黒ズボン、つばひろコットン帽子にヤッチャン風黒目がね、白い普通のズック+黒っぽい皮リュック+深緑の皮バッグ+黒革のウエストバッグ、父親は灰色系シャツ、濃いネズミ色系背広上下にペラペラの青いジャンパー(当然、上着の裾はジャンパーから飛び出している)、小さな縁のついた普通の帽子、白い普通のスニーカー+母親とのペアールックを意識してかやはり黒革のウエストバッグ、やはり黒っぽいリュックに黒い普通のショルダーバッグ、明石の母親は、ベェージュっぽいシャツに薄青のバティック風スカート、中高年向きアシックスウォーキングシューズ、左手には白いギブスのアクセント(最近、転んで骨にひびが入った)+普通の旅行用手提げかばん、父親は、白っぽいポロシャツ、ベージュの上着、青いスラックス、普通の黒の革靴、つばの小さな麦わら帽子+普通の旅行用手提げかばん、といういでたち。こうして、中高年男女3組は、ボーディングまでの間、搭乗待合い室をうろうろするのであった。

なんとファーストクラスに乗った

 そのうち、「サイパン行きのお客様は、現地での台風接近のため、いったんはグアム空港までまいりますが、状況によっては引き返すこともありますのでご了承下さい」などという不吉なアナウンスの後、われわれは機上の人となった。われわれに用意されていたのは、翼の真上でかつサービスエリアの真横かつ喫煙席。禁煙席乗客の喫煙用座席が直前にあった。わたしは終始もうもうたる煙に悩まされたので、グアム空港で厳然と不満と変更をエーゴで申し述べた。
「そりゃ、ほんま、すまなんだ。ほな別の席、用意させてもらいまっさかい(うるさいやっちゃな。そんなんパックツアーで文句いわれたらしゃあないわ。サイパンまではがらがらやから、いっちょ上に乗せたれ。粋なはからいや、て感謝せえやあ:予想本音)」てな感じの現地スタッフは、なんとジャンボの二階席、つまりファーストクラスを用意してくれたのであった。サイパンまでのほんの30分ほどだったが、常々いったいどのような構造になっているのだろうかと思っていたジャンボのファーストクラスに初めて座ることができた。乗り込むときわたしは、母親に、「これは大阪に戻る飛行機なのだ」と冗談で告げた。意外と素直に、うん、とうなずく。ここで冗談だ、というべきであったか。実際、われわれの乗った日航機はサイパン経由で関空に向かう便だった。
 広くて心地の良い座席の感触を確かめ、どこかしらエラくなったような気分と「こんなもんか」感を抱きつつ前の座席をなにげなく見た。すると、わたしの父親がタバコに火をつけるのが見えた。あっ、やばい、と思っている間もなく、父親はふう、と一服する。もおお、喫煙席いややいうてここにこらしてもろたのに、とわたしはあわてて父親に禁煙を厳命する。
「禁煙サインが消えだがらよ、ええべど思った(英訳: I thought I could smoke. See, there is no sign)」
 今度は母親が、若くはなさそうな女性パーサーに「あの、おらだづは大阪さ帰んなだが(英訳:Are we going back to Osaka?)」と聞いている。
「お客様はどちらまでですか」
「サイパンでっす(なまってはいるが、彼女はいちおう標準語に切り替えたので以下そのまま)」
「でしたらもうすぐお着きになります」
「台風は大丈夫なんでっすかあ」
「問題なさそうです。楽しんできて下さい」
「あーあ、そうですか。安心した」
 このやりとりを聞いていたわたしは、真実に近い冗談は今後やめよう、とひそかに決心した。

美しい珊瑚礁の島だが

 この島に着いて二日ほどは、台風の接近で、灰色の切れ切れの雲が北から南へと激しく流れ、ときおり雨も降るという天気だった。しかし、雲が吹き飛ばされた後には、暑く明るい夏のけだるさが島を包みこんだ。ただ、日本の夏の海岸とはまるで違う。われわれの夏を想起させるセミの合唱も、波しぶきとともに漂ってくる潮のかおりもない。あるのは、濃い太陽光の照射に呼応して色彩を変化させる海と、熱帯のカラーンとした明るい希薄さ。沖合いの白波の連なりに守護される礁湖の色は、深浅に応じて、薄いエメラルドグリーンとコバルトブルーと群青色の縞模様を織りなし、実に美しい。
 台風の接近で、母親たちの楽しみにしていた観光潜水艦も出ないということなので、小さなマニャガハ島へ渡り一日ぼーっとした。20分もあれば1周してしまう小さな島である。砲台の跡がそのままになっていたりして、マリンリゾート地のオブジェとしては異質な感じだ。また、島の来歴を示す小さな表示板に、「アメリカ軍侵略地」などと日本語で書いてあった。この種の表示板は、行政の観光課あたりが取り付けるものだろうが、ここはアメリカ領なのにどうしたこんな表示なんだろう。
 マニャガハ島は珊瑚礁に囲まれているので、まわりは宝石のように美しかった。

こんなものがなければもっともっと素晴らしい

 しかし、この美しい南洋の島に、こんなものがなければもっともっと素晴らしい。
「島内最大のデューティーフリーショップ、ブランド数・商品構成・アイテム数、すべてにおいてサイパンナンバー1、ここ一軒ですべてOKのDFS」やら、「南の島から・・・心を込めた贈り物」のハクボタンやら、「南国のやさしさに包まれて二人で鳴らすウェディングベル」やら、「無煙ロースターで焼く和風焼き肉店、文楽」やら、「日本食の恋しいサイパン在住の日本人やチャモロ、アメリカンに人気のある海賊レストラン」やら、「ラーメン、トンカツ、丼もの、炉端焼き、刺身、ステーキ、またカラオケや麻雀ルーム完備の金八レストラン」やら、「手頃な価格で本格派日本の味を、の喜楽」やら、「味も店内の雰囲気も本格派の韓国料理店アリランレストラン」やら、「ボリューム満点!本格派中国料理のダブル」やら、「老舗の味、受け継がれた伝統の中国飯店」やら、「安くて美味しいタイ特有の笑顔でサービスのマイタイ」やら、「2時間飲み放題、歌い放題のナイトクラブ、ブルーラグーン」やら、「ガラパンの夜にそびえ立つミクロネシア最大のディスコティック」やら、「水と緑の中で一日中楽しめるフェスティバルマーケット」やらの、まるで美的調和のあるデザインが禁止されたような建物や、その建物の外部に無造作に氾濫する日本語やハングルや英語の文字。
 美的調和の無視という点から見れば、西海岸線をほぼ占拠し連綿と立ち並ぶリゾートホテル群もそうだ。どちらかといえば、一切なければ素晴らしい。これは後で知ったことだが、ほとんどが日本資本によるこれらのホテル群は、地元の反対を押し切って建てられたらしい。たとえば、島北部の美しいサンロケ村に建つ巨大な「ホテル・ニッコー・サイパン」のあたりの海岸は、以前は住民の漁場だったところで、そのために反対運動が起こったという。こうした、地元住民との調和を無視して建築を強行されたホテルが、デザイン的にすぐれているのであれば、ちょっとは救いようがあるかも知れない。しかし、哀しいことに一見ゴージャス機能一点張りで決して美しくない。

こんなところまできてゴルフなんかするな

 また、「こんなところまできてゴルフなんかするな」といいたくなるゴルフ場が、この小さい島に二つもある。特に島の北端のマッピ丘陵を切り開いて日本企業によって造成された「マリアナ・カントリー・クラブ」からは、海に流出する赤土でサンゴの生息に深刻な影響を与えているという。ただでさえ、ゴルフに熱中する日本人のまったく優雅ではないファッションや人品、自然環境を無視したゴルフ場を憎むわたしとしては、あってほしくない。てかてかと日焼けしたオッサンがゴルフバッグをかついでいるのをサイパン空港で見たときは、わたしは思わず心の中で「ケッ」と叫んだ。なにがタイガーウッズだ、オザキだ、バンカーが深いだ、「おれ、にぎらきゃよかった」だ、500番アイアンだ、「○○さんのキャディーはカワユイ」だ、「やっぱビールっすね、ゴルフの後は」だ、ケッ、ケッ、ケッ、ケッ。はっきりいって、ゴルフとカラオケは、よくない。こういうものは、人類としても、よくない。

 

マリアナ諸島の歴史をちょっと
 サイパンやグアムのあるマリアナ諸島に人が住み始めたのは、紀元前1500年くらいからといわれている。フィリピンから移住してきたといわれているが、はっきりしたことは分からない。800年ころの遺跡から、ニワトリ、ブタ、イヌの骨や出土されているので、人々は漁労採取ばかりではなく、家畜をもち、それらも食料としていたことがうかがえる。また、サイパンのすぐ南の島、ロタ島では水稲栽培もされていたらしい。

ラッテ時代前後

 われわれの泊まったアクア・リゾート・クラブの建物に装飾的に使われていた石柱は、ちょっと変わった形をしていた。荒削りの四角の石柱の上にお椀のような半球形の石をちょこんと乗せている。この独特の石柱はラッテと呼ばれ、ロタにはラッテ用の巨大な石切場があるという。用途ははっきりしないが、この地域にも巨石文化があったことを示している。歴史家は、マリアナ諸島の歴史を、紀元前1500年から800年までを「前ラッテ時代」、ラッテが作られていた800年から17世紀を「ラッテ時代」と区分している。
 「ラッテ時代」以後はどうなったか。多くの非植民地と同様、マリアナ諸島の歴史は、ほとんど島外からの侵略の歴史になる。これが非常に哀しい。

一方的侵略の歴史

 まず、世界一周をしたことで有名なマゼランの艦隊が1521年にグアム島にやってくる。食料補給のために偶然立ち寄った彼らと島民たちのちょっとした摩擦によって(本当にあったのかは分からない)、島民たちは一方的に陵辱される。マゼランは、4日間のグアム滞在中、「武装兵40人を指揮して上陸し、四、五十軒の家屋と多数の小舟を焼き払い、7人を殺し」(マゼランの航海に参加したイタリア人、アントニオ・ビガフェッタの記録)て立ち去ったという。このマゼランの突然の来襲以後、当時10万人ほど住んでいたというマリアナ諸島の長年続いた平和が終わる。
 1565年には、スペインのガレスピの艦隊がグアムの領有を一方的に宣言し、フィリピンとメキシコとの貿易中継点とした。それにともない、スペイン、フィリピン、メキシコ人が移住し、混血が進み、原住民であったチャモロ人の生活や文化が失われていった。
 ついで1668年、スペイン人キリスト教神父が32名の護衛兵をひきつれて布教のために上陸。その2年後の1670年、チャモロ人は伝統破壊に対する危機感から最初の反乱を起こす。スペイン軍はこの反乱を鎮圧、反抗的島民を逮捕したり殺したりする。引き続いて起きた住民とスペイン軍との戦争が終わった1695年には、大虐殺によってチャモロ人の人口は激減する。10万人の人口が5千人以下にまでなったという。すさまじい殺戮だ。かろうじて生き残ったチャモロ人は、グアム島にあった収容所に押し込められ、サイパン、テニアンなどの島は無人島と化す。

アメリカ、ドイツ、そして日本領へ

 200年余のスペイン人支配が続いたが、1898年には米西戦争に勝ったアメリカが、マリアナ諸島の新たな支配者になる。ついでドイツ領。しかしそれもつかの間、第一次大戦に火事場泥棒的に参加(1914年)した日本が、労せずして南洋諸島の新たな統治者になる。島民を有色劣等人種として扱う白人支配者から、肌の色の似た新たな支配者に島民はかすかな期待を寄せるが、期待は簡単に裏切られる。島民は、新たな支配者にも土人や黒ん坊とか呼ばれて蔑まれるのだ。『冒険ダン吉』(島田啓三)は、当時の日本人の島民イメージをよく表している。漫画では、腰蓑と王冠のようなものをつけた白い肌のダン吉少年が、真っ黒でいかにも愚鈍に描かれる島民に教育を授ける。このときの日本人のメンタリティーとイメージは、表面的には現れないが、「開発途上国」民にたいして現在でも続いているような気がする。
 さて、こうして日本の支配下となったマリアナ諸島は、製糖業の一大拠点として「開発」され「発展」していく。労働力は、沖縄人や日本の没落農民を中心とした移民であった。チャモロ人は、その移民の下位の労働力として従属を余儀なくされる。サイパンやテニアン島の本格的「開拓」も進められた。占領当時、南洋諸島すべてでも80人ほどだった日本人の人口は、「開発」によってどんどん増えた。サイパン島を例にとれば、1923年に原住民3,398人に対して日本人3,764人だったが、移住ピーク時の1940年には原住民3,765人に対して日本人25,309人となっている。日本の帝国主義的南進政策に便乗して砂糖工場を起こし大儲けをした政商松江春治は、自身の銅像までぶったてる。それが今でもサイパン公園に立っているそうだが、われわれは見ていない。
 太平洋戦争が始まると、マリアナ諸島は日本にとって重要な戦略拠点となり、住人はひたすら戦争奉仕のために労働にかり出される。原住民は、日本軍将兵の食料生産のために強制労働させられるが、日本人民間在住者も軍にとっては貴重な労働力であった。
 当時、サイパン島を含むマリアナ諸島は、日本の「絶対国防圏」である。つまり、ここを占領されれば、日本の敗戦が決定的になる。
 北マリアナ戦の結果は、みなさんがご存知のように、戦略と戦術と兵力と武力の欠落した日本軍は、一般人を大量に巻き込んで大敗。かくして北マリアナ諸島は米国領となり現在に至る。

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 この旅行のあと、サイパンのことを知るために図書館にいったが、まともな本はないのですね。かわりに、これまで、ぼっーとしか分からなかった太平洋戦争の本をかなり読みました。当時の日本軍というのは、情けないくらい戦略がなく、戦術の工夫もなく、いたずらに人命を浪費したことがよく分かりました。現在の日本においても、どこか根本的な部分で当時と同じ精神性を感じます。

サマーチャール・パトゥル第22号(1997)より