ソウル訪問

 9月17日ソウルで行われる「元長賢とアジアの仲間たち」コンサートのための打ち合わせで2年ぶりにソウルへ行きました。このコンサートの第1回目に出演したのがわたしの先生のハリジーでした。昨年はモンゴルの演奏家たちと行い、95年で3回目なのです。で、この年は、劉宏軍(笛)、金堅(古箏)、劉鋒(二胡)、張薇薇(楊琴)に出演してもらうことになり、企画とコーディネイトを引き受けました。 

徳山氏の飛行機待たせ好き 

 スポンサーである徳山さんには、飛行機は待たせるものだという深い信念があるようです。当日の大韓航空のフライトは15:50ということでしたが、われわれが着座するとすぐ離陸というきわどさでした。わたしはボーディングのサインやアナウンスが出ると焦ってしまうので、「待っているみたいですよ」というのですが「ええねん。待たせといたら」と悠々なのです。
 最終コール、最終コール、という空港の叫びを完全に無視し、「あっ、そや、ベルト買わな」、「そうそう、お土産もいるなあ」、ゲートには航空会社のスタッフ以外既に人は誰もいなく、じりじりしながらわれわれをみているのも構わずに「ちょっと週刊誌買うてくるわ。ちょっと待っといて」戻ってくると、原田さんに「ちょっと、サンドイッチかなにか買うてきてえな」なのです。
 しかしこういうタイプはどこにでもいるらしく、徳山さんと原田さんを待っているわたしの前をときどき悠然と搭乗してくる人がいるのです。わたしにはとてもできそうにありません。

ソウル訪問目的

 前回ソウルへいったときビジネスクラスだったために出されるシャンパン、ワイン、機内食などを拒むことなく食べ続けて、元長賢夫人の抜群の手料理を十分楽しめなかったということもあり、機内食は控えめにして金浦空港へ。当初は元長賢さんの新築パーティーに参加する、という目的もありました。しかし、雨のため工事が進まず延期ということになった。このことが出発日の当日に判明したため、2泊予定を徳山さんは「1泊ということにしょおか」ということになりました。 

予定変更 

 そこで到着した空港で次の日のフライトに変更することになった。大韓航空のロビーへいくと、満席とのこと。どうするか悩んでいるとき、やあ、こんにちわ、てな感じでにこやかに近づいてくる人がいた。徳山さんの空港警察関係者の知り合いだったのです。そこで徳山さんは、こうこうこういう事情で明日のフライトにしたいんだがどうも席がないようだと訴えた。するとその人は、ああー、そうですか、私がなんとかやってみましょう、どれどれパスポートを下さい、という感じで関係者に交渉に行くのでありました。その間われわれは警察詰所のようなところで座って待つのでありました。・・・というような感じで、と書きましたが、そうしたやり取りが韓国語でなされるので推測するしかなかったからです。「じぁあ、明日の5時ころ来てください」ということになり、われわれは「さすが警察関係者、よかったよかった」といいつつタクシーに乗ったのでした。 

相変わらずの渋滞 

 ソウルの道路交通事情は相変わらず凄まじいものがあります。空港から途中まではすいすい行くのですが、今やソウルの大きな目印となった金色のタワービルのあたりにくるとにわかに車の流れが悪くなる。強引な割り込みも手伝って道路は完全なアナーキー状況となるのです。市街地に入ったかなというあたりからこうした状況は次第に悪化の傾向が顕著になるのです。
 われわれの車(ちょっと高めの模範タクシー)は両側からすりよってきたバスにはさまれそうになる。ソウルの市街地道路は一体にかなり広めに作られているのですが、車の絶対量が多いのか、とにかく常に渋滞状態なのです。中心地の博物館(旧日本軍司令部のビル)は取り壊しの準備のため仮設のシートで覆われていました。
 われわれの投宿したホテルは、ソウル駅から近いヒルトンです。ホテルに到着したら、すでにKJC(KOREAN JAZZ CLUB)の権さん、金さんと朝鮮日報の権赫鐘さんがわれわれを待っていました。KJCの金さんとは前にお会いしています。「THE HUND-REDS GOLD FINGERS」というコンサートが最近ソウルで開かれ、ひとしきりその話題で盛り上がった後、今回のわれわれの目的である「元長賢とアジアの仲間たち」というコンサートのことになりました。権赫鐘さんは、ジーベックでこれまでやってきた「アジアの音楽シリーズ」のことを話したら非常に興味を持った様子でした。今後ソウルでもシリーズ化できたらいいなあと思っていましたが、案外できそうな気がします。

ベルバラの元長賢氏宅

 9時近く、元長賢さんの新居へみんなで向かいました。徳山さんは権赫鐘さんの車で5分ほど早く出たのですが、わたし、原田さん、権さんの後からのタクシー組がずっと早く元さんのお宅に着きました。たしかに元長賢さんの新宅はまだ工事中でわれわれが到着したときも職人が仕事をしていました。
 2階の居間、食堂に通されましたが、その内装にはちょっとたまげました。全体がある種の統一したコンセプトで貫かれているのですが、そのコンセプトがすごい。
 すごい、としかいいようがない。「ベルサイユの薔薇」なのです。ソファ、ステレオなどの機械類の入った化粧戸棚、天井の彫り模様、食堂の天井、壁、テーブルすべてベルバラムードなのです。
 われわれが徳山さんたちを待っているあいだ(これが実に45分ほど)、元長賢氏は自身のビデオやテープを見せてくれるのはよいが、各機械のリモコン入れがまたすごい。竹かごにぎっしりとリモコンが入っているのです。元長賢氏宅で例によって夫人のおいしい家庭料理をしこたまごちそうになりました。特に魚のスープは絶品です。 

同行者原田さん 

 ホテルでは徳山氏の同行者の原田さんと同室でした。伺えば原田さんは70年代からずっと公安関係で働いていた元警察の人で、かつて学生運動の活動家であったわたしは、こういう人たちと渡り合っていたのかと感慨を新たにしたのです。当時の学生運動セクト内部などに情報提供者を作ったり潜入させたりと、日本の公安警察システムのすごさと、一種の恐ろしさも感じました。
 原田さん本人はいつもにこにことしていてやさしい人です。世が世であれば出会うことのなかった人ですが、人間の出会いというのは不思議なものです。

韓国式昼食

 翌日は、韓国でも財閥のひとつであるSKCの房極均部長さんらから昼食の招待。韓国田舎家風の中庭のある平屋建ての料理屋でした。ここでの食事も印象深いものでした。
 あまりに多くの料理が出されたのでいちいち覚えていません。少量多品種結果超満腹なのです。料理が一時に全面展開されるのではなく、客の摂食進行状況に応じて切れ目なく少量の料理が運ばれてきます。したがって、最初期に出されたものをあせって全部食べてしまうと後悔することになるのです。アンモニア発酵臭のある鮟鱇はごちそうだということでしたが、私にはもう少し訓練が必要です。 

モンゴル大使夫妻と歓談

  本来の予定であるならばこの日に帰国でした。しかし、空港へ行ってみると、前日に空港でお会いした、ああー、そうですか、私がなんとかやってみましょう、どれどれパスポートを下さい、といってくれた空港警察関係者がなんとも苦悩の表情で、実は、席がとれなくて、と謝っているのでした。徳山氏が大韓航空のカウンターでねばっても席が取れないことが判明し、しかたなく再びソウル市内に戻りました。にわかにスケジュールの空白ができた徳山氏は、あっ、そや、モンゴル大使に会おう、と決めたのでありました。わたしと原田さんは彼に全面的に身を預けるしかありません。
 ということで夜は、モンゴル大使夫妻とホテル地下のイタリア料理店で会食。大使のお名前は失念しました。大使は、モンゴル語は当然としても、英語、ロシア語、韓国語を流暢に話す額の広い学者然とした人でしたが、徳山氏とはくだけた話を韓国語で楽しんでいました。夫人は韓国語がダメ、徳山氏は英語ダメということで自然にわたしはその夫人と英語でおしゃべりしました。なぜ唐突にモンゴル大使なのか、といいますと、実は前年の元長賢氏の公演でモンゴルの芸能団が参加し、そのときいろいろ便宜を計ってくれたからなのです。 

雨のソウル尼寺 

 予定外の3日目は、元長賢氏夫妻と岸壁直下の川に面して建つ仏教の尼寺を訪問。雨が降っていました。そこで韓国式茶道とご飯のお焦げを煎餅状にしたスナックでもてなしを受けました。日本へ行ったときパチンコしたら勝ってしまって、と笑っていた快活そうな白装束の尼さんは、どう見ても30歳代後半から40歳代だと思ったほど顔つきや表情が若々しかったのですが、実は60歳だとのこと。不思議な感じでした。元長賢氏が軽く弾いたカヤグムが静かな尼寺にぴったりでした。おみやげにおおきなうちわをいただいたのに忘れてきてしまいました。
 尼寺で元長賢夫妻と分かれたわれわれは空港へ行きキムチを買い込み無事帰国。短い韓国訪問でしたが、様々な人たちとお会いし印象深い小旅行でありました。

サマーチャール・パトゥル第19号(1996)より