苦悩表情的日本人ダンサー

 どうして日本人のダンサーは苦悩の表情で踊るのか。映画監督のヤシャ・アジンスキーといろいろ話し合った結果、次のようなことが考えられるのではないかという結論に達したのでありました。

1.実際に苦しいから(肉体編)

 普段まったく運動などしたことのないわたしから見ると、ダンサーは過酷な運動を強いられます。少々の時間であれば息切れなどしないように訓練しているとはいえ、非日常的動きの連続なので、筋肉や骨が悲鳴をあげていることが考えられます。この場合はとても笑ってなどいられない。肉体のこうした苦しみは当然、表情にも出てくるでしょう。重量挙げやマラソンの選手の表情などを例に挙げるまでもありません。

2.実際に苦しいから(精神編)

 AKJのダンサー、角正之氏はこういっています。「音と動きの全ての要素が風に揺らぐ葦のように大気と触れ合い、止むことのない協調(コーディネーション)を続けていく。あたかもそれは、皮膚自身の思考のように環境へアフォーダンス(Affordance)する。そして、環境は知覚の『持続・変化』のありのままをリンクする重力のインターフェース(境面)のようなものである」「私達の身体はその皮膚の拡がりに包まれて即時、宇宙の情報を索引、用意している見えない器であると考えよう」
 わたしのような、ダンスを見ながら食事の情報を索引、用意しているような、単にぼやーっと見ているだけのような観客にひきかえ、ダンサーたちがこんなややこしいことを常に考えながら動いているとしたら、その精神的苦悩は想像すらできません。食事情報の索引ではふと笑みもこぼれますが、彼らないし彼女らにとってはそれどころではない、存在の葛藤ともいうべきおそるべく精神的苦悩があるわけです。それが表情に出ないはずがありません。

3.芸術とは苦悩である

 エンタテインメントは人を喜ばすものなので、エンタテイナーはたいてい喜ばしい表情をしています。しかし芸術というのは、一種のエンタテインメントとはいえ、人生にとってなにかしら重大な意味も含まれるため、いつも喜んでばかりはいられない、ということもあるかも知れません。いわゆるクラシックのソリストたちの演奏中の表情は、たいてい苦悩です。まるで、芸術それ自身に苦悩が内在しているかのようです。笑みを浮かべると軽薄な感じは免れず、大した芸術家ではないと人は思ってしまうかも知れません。したがって、自身のやっていることを芸術であると意識すればするほど、苦悩の表情はより強まることも考えられます。一般に芸術とはみなされない盆踊りや、いわゆる民俗舞踊の踊り手たちの歓喜の表情と対比して考えてみても、やはり、芸術とは苦悩である、というテーゼには真実に近いものがあるように思えます。

4.一瞬ごとに自己嫌悪におちいるから

 とくにこれは、わたし自身がそうなので最も想像しやすい。本当はこう動きたいと意識しているのに、こう動けばより美しいと思っているのに、実際の動きがその意識とあまりに違っている場合。たいていの表現者は、理想的な、あるべき美しい表現を想像しそれに向かって一歩を踏み出すわけですが、踏み出した途端、イメージする理想の美的表現からのずれに直面し、なんて自分は表現者として未熟なんだ、と自身をなじることになります。ダンサーの場合は、自己の肉体の動きにほれぼれとするような美しさを感じると同時に、こうした未完成者としての自己を叱咤しなければならないという自己矛盾に陥るためにどうしても苦悩表情になってしまう、ということも考えられます。

5.人を笑わすよりも簡単だから

 喜劇は悲劇よりも数倍難しい、とはよくいわれることです。一般に、苦痛や苦悩の記憶のほうが、喜ばしい記憶よりも持続するものです。さまざまな苦悩の記憶を詰め込んだ聴衆にとっては、表現の深刻さにより共感を得るということはありうることです。表現者の苦悩の表情は、歓喜の表情よりも、聴衆の共感を得やすいともいえます。舞台での歓喜の表情は、どことなく嘘っぽいということもありますよね。
 では、なぜフランス人のジュヌヴィエーヴのダンスはそうではないのか。ヤシャによれば、彼女はリラックスしているから、だそうです。逆に言えば、日本人ダンサーはリラックスしていないと。ふうむ、なかなかに難しい問題であります。

サマーチャール・パトゥル第28号(2001)より