十津川村盆踊り合宿

 例年の十津川盆踊り詣で。今年は、同乗をあてこんでいた山口の水谷女史が電車だったため、徹夜で鳥取から走ってきた大阪芸大大学院生葉狩哲哉青年に大和二見で拾ってもらい十津川へ行きました。葉狩君は、なんとなくくたびれた感じの青年です。
 途中から、葉狩青年の代わりにわたしが運転しました。「なんだか車酔いしました」とげっそりしている葉狩青年と宿舎の「武蔵青年会館」に到着。「みんながヒロシさんを待っている」という中川真チャマの言葉通り、みんなが腹をすかせて待っていました。早速、夕食の芋煮のために和田商店まで買い出しに行き、調理助手として阪大哲学青年堀江剛、三橋はるな、池田宏子をこき使い、とんでもない量の芋煮を作ったのでありました。夕食後、恒例の大野部落盆踊りに参加。
 この14日は、枡田光信+理子+隆士父子(強権的父親に反抗する子供たち)、吉田史絵子、高橋綾、山本文、プスパこと戸田めぐみ、ミミチャンこと坂口美佐、水谷由美子女史、宮本剛、ほぼスペース天幽閉指導教官シスワディ、石橋伸之、本間直樹、船越美香、石田訓靖+光江夫妻、松尾容孝、堀江剛、佐久間新、中川真、東京組の田中理恵子+田鋤、三橋はるな、池田宏子、葉狩哲哉そしてわたしの、合計26名が、雑魚寝状態で宿泊。
 15日は、地元武蔵部落盆踊りの本番です。ほとんど全員、地元青年タクシクンの指示の元、朝からやぐらを組んだり、新調した提灯や飾り物を下げたりと、作業に励むのでありました。われわれ調理班は、黙々と昼食のカレーを作ります。途中、那智勝浦からやってきた芝先隆さんが、トコブシ、サザエをどっさりと差し入れ。調理方法が分からず、とにかくお湯にぶち込んで煮込んでみると、なかなか野趣に富んだ味わいになりました。皆があわただしく昼食を済ませた後の調理班は、しばし昼寝の後、温泉、買い出しと今度は夕食の支度。夕食は、とろろメシでした。まったく、飯炊きにきたのか、オレは。
 武蔵野盆踊り本番は8時から。心配された雨もパラパラッときただけ。今年は去年のようなNHK取材もなく、落ち着いた感じで盆踊りは進みました。コロンとしたシスワディの温泉宿浴衣姿は、それよりずっと布地も仕立てもいい浴衣の真チャマよりも様になっていました。シスワディは、村人の振りを見ながら熱心に踊りに加わり、その楽しみぶりを評価されたのか、来賓挨拶まで乞われる。例によって盆踊りは深夜まで続きました。
 16日、祭りの後かたづけの後、真さんの車に、シスワディ、水谷女史、佐久間青年、わたしが乗り込み、那智勝浦へ。ツードアの狭い車内に、大量の私物と人間が折り重なり身動きがとれない過酷な移動。それにしても、毎度のことながら水谷さんの荷物は多い。
 われわれと勝浦で合流することにしたミミチャンとプスパは、先にバスで出ていましたが、途中で携帯に連絡が入る。「乗り換えるところでえ、二人とも寝てしまってえ、いまあ、湯の峰温泉ていうところまできちゃったあ。これから本宮まで戻ります」。またしばらくすると「いったん乗りかえ地点までいったけど、運転手さんに『新宮行きはこれに乗れ』っていわれて乗ったら、また湯の峰温泉にきちゃった」と電話が入る。どうしようもないヤツらだ。
 勝浦の芝先邸につくと、小雨のぱらつくなか、さっそく海岸でバーベキュー。そして、昨年と同じ「越の湯」の温泉につかり、深夜の那智の滝で、シスワディのルバーブ、わたしの笛と佐久間君の踊りパフォーマンス。シスワディのルバーブは、わたしの笛の音と微妙に音程がズレ、なんとも気色悪い。真さんによれば、わざと、ほんの少しずらすのがルバーブの妙味だとか。音程にきわめて厳格なインド音楽と一緒にやるのは、なまなかな神経ではできませんね。ともあれ、これで那智の滝は二度目ですが、音だけで、未だに滝の姿を見ていません。
 次の日は、佐久間君、ミミチャン、プスパ、シスワディたちが真さんの車で十津川へ帰り、わたしと水谷さんが一緒に電車で帰りました。彼らを送り出した後、わたしは芝先家の台所を借りてトマトソースを作り、芝先奥さん、早朝戻ってきた娘のケイちゃん、水谷さんとで遅めのパスタランチでした。帰りは、水谷さんとおしゃべりをしながらくろしお28号で新大阪まで。

●あったらの姿勢(Attara Atitude)

「真さん、もやしのナムル食べる」「うん、あったら食べる」「プスパ、みかん食べる」「うん、あったら」。これは、特定の食物に対して積極的な摂食意欲はないが、提供されれば食べてもいい、という姿勢のことです。あったらの姿勢をとる人は、自分では積極的に調理はしない。誰かが作ってくれる、あるいは提供すれば、拒絶することなく食べる。十津川村武蔵青年会館に年に一度集まってくる人々に共通するけしからん姿勢なのです。

サマーチャール・パトゥル第25号(1999)より