イギリスについて

イギリスは寒い

 まず、イギリスは寒かったこと。かなり暑かった日本からロンドンについてみると、空は常にどんよりとしてすっきりせず、つかの間、陽が出たと思ったらとたんに小雨が降りだす。他の出演者たちの練習に刺激された七聲会のメンバーが、ロンドンの宿舎の中庭で声を出したときが最も寒かった。わたしは、デジカメを持つ手が震えていたのでありました。ときおり晴れると今度は汗ばむほどの暑さ。というように、ロンドンでは真夏、春、秋、冬用の衣類と傘を常に携行しなければならないのです。着たり脱いだりがとにかく忙しい。

ロンドンは汚い

 ついで、ロンドンの街は意外と汚い。インド系、アフリカ系、中国系など、ロンドンには多くの非白人が住んでいることも関係しているのかも知れません。どの大都市も、ディテールのところでは特有の汚さをもっているものですが、ロンドンは、乾いた粘液的汚れというのか、どことなくインドに共通するものをもっているようです。とくに、われわれが滞在していた宿舎のあるキングス・クロス駅周辺は、ボンベイの街のように見えました。実際、インド系の経営するコンビニやホテル、レストランが多かったせいでもあります。パリと比べて、なんとなく雑然とした印象です。

イギリスは美しい

 一方、ロンドン以外は、ひたすら美しい。なだらかな緑の起伏が延々と続き、まるで全国土が富良野か十勝平野のようです。子供の背くらいの高さの石垣に区切られた牧草地では、羊や牛がのんびりしています。そして、麦やジャガイモなどのゆるやかな起伏の畑。人間の姿はない。わあー、きれいだなあ、と最初はビデオに撮っていましたが、そのうち何時間も風景に変化がないので、あきてしまう。ときおり通過する小さな街は、歴史と一緒にたたずんでいる印象でした。

バスタブ漏水事件

 ヨークシャーに近いMaltonという小さな町のSuddabyis Crownホテルで、バスタブに貯めていた湯があふれ出す、という事件がありました。このホテルには、部屋の外に共同バスタブがあります。入浴に飢えていたお坊さんの一人、最も若い池上良生上人が、3階にあるタブにお湯を入れようとしたのはいいが、部屋に帰って貯まるのを待つ間、寝てしまった。自動止水装置などというものはないので、あふれ出たお湯は築100年以上という古い建物の床をひた走り、隙間を見つけて2階の天井に到達、そのままオーナーの事務所兼寝室に落下、紙関係や事務機をびしゃびしゃにし、さらに2階の床をくぐり抜け、最終的には1階のバーのグラス棚にまで至ったのでした。止水を忘れた本人がしっかりと寝ている間、けたたましいアラームに起こされた、あわれオーナーの家族と伊藤俊浄上人は、勝手気ままに走り回るお湯を追いかけていた、というのをわたしは朝になって知りました。オーナーは、朝食をとっているわたしに、「とにかく、見てんか」と漏水個所を案内。「ほんまに、こんなんは初めてや・・・ぶつぶつぶつぶつ」「弁償とかはどうなりますか?」「うーん、ま、誰がやったか分からんさかい、保険でなんとかしまっさあ」となんとなく大阪弁のような感じでいってました。このやりとりを報告すると、あわれ、池上上人はひたすら縮こまる。

 

イギリスの食事は不味い

 昔から、イギリスの食事は不味い、というのが定評があります。で、実際、われわれが10日間滞在した限りでは、やはり、不味い、といわざるをえない。イギリスの典型的な料理というと、フィッシュ・アンド・チップス、ということですが、フェスティバル関係者の誰も勧めなかったのです。イギリス人である彼らは、中華が、インド料理が、タイ料理が、と勧めてくれるのですが、イギリス料理については触れない。自信がないのかなあ。フランスの人たちとはかなり違いますね。
 有名なジョークがあります。人生最良の選択は、日本人を妻にし、アメリカの家に住み、中国人のコックを雇い、イギリス人の執事をもつこと。一方、最悪の選択は、アメリカ人を妻にし、日本の家に住み、イギリス人のコックを雇い、中国人の執事をもつこと。
 中華料理、インド料理以外のイギリスで食べた料理は、どれも味に微妙さがなくがさつな感じです。肉は大味だし、野菜の種類も少ない。グリーンピース、ニンジン、どっさりついてくるポテト(わたしは憎んでいる)くらいです。もっとも、われわれは高級料理ではなく、大衆料理だけをたべていたのでこのような印象になったのかも知れません。
 帰国後、東京のコンサートで一緒だったバグパイプ奏者、デビット・ハッチャーによれば「どこにいっても食事のことだけを話題にするのは、日本人くらいなもの。日本のテレビは食い物番組とばか番組だらけ。イギリスでは、食べ物がそんなに話題になることは少ないのだ。食べ物は単なるエネルギー源であり、精神的に充実した生活にとっては些末なこと。いいのよ。不味いっていわれても」ということ。わずかな体験で結論づけるのは、乱暴ではありますが、不味いのには、なにか積極的な理由があるように思えます。

サマーチャール・パトゥル第27号(2001)より