高松のうどん文化

 9月に演奏会のため再び高松市に行きました。そこで、高松市の人々は大変幸福だ、と思ったものがあります。
 うどんです。
 四国の讃岐といえば、うどんの本場として全国に知れ渡っています。無類の麺好きであるわたしは、また、あの、本場の讃岐うどんにめぐり合えるのだ、というわくわく感をいっぱいにして高松に向かったのでありました。5月には、髪の薄いスイス人ハインツ、髪の大変薄いインド人タブラー奏者アビジット、髪だらけのインド人シタール奏者アミットと行ったことは前号で触れましたが、9月はタブラーのみで生活を維持する日本の唯一者、吉見征樹さんと、阪大の大学院生でありながら次第にインド音楽の泥沼へと傾斜しつつある寺原太郎さんが同行者でした。
 会場の高松市美術館に到着し、担当の、すがすがしく麗しい人妻、佐藤直子さんとセッティングのことなどを打ち合せているとき、すでに、わたしの「うどんわくわく感」は他のすべての想念を排除しつつありました。
「安くておいしいうどん屋さんは?」
「またうどんですか」
「はい。前回紹介していただいた高級うどん店は、具の豪華さでうどんそのものの感激度がもうひとつ薄れたので、ここはひとつ、高松市民の人気のある安い店を教えて下さい」
「じゃあ『うどん市場』へ行ってみますか」 タブラー生活維持的日本唯一者吉見征樹さんも、大学院生次第忘却的印度音楽泥沼傾斜的タンブーラー奏者寺原太郎さんも、今回のボスである日本のバーンスリー演奏第一人者(だいひとりしゃ、と読みます)中川博志ことわたしのうどん想念満杯状態にすっかり感染してしまい即座に同意しました。
 セルフサービス方式の小さな店、「うどん市場」は、栄光の讃岐うどん文化を高らかに具現していました。麺および汁というかタレの高水準に反比例し信じがたい安さなのです。 まず、本体であるうどん。1玉(小)100円、2玉(大)150円。てんぷらトッピング関係は、海老てん130円、かき揚げ60円、さつまいも、ごぼう、茄子各70円、コロッケ60円、ミンチカツ90円、白身魚80円。カレーライスもありまして、小が230円、大は300円。(料金調査協力:NHK高松支局嶌田治記者)
 システムはこうです。トレイを手にした客は、まずカウンターに並ぶてんぷら具関係を選択します。そしてそのコーナーを進み、さっと湯でチャッチャッしたうどんの上に選択申告した具を載せ、その上に汁をかけた丼が手渡されます。ねぎはとりほうだい。値段は、最終コーナーで素速く勘定されます。わたしは、最高額の海老てん+うどん大を選択し、280円を支払いました。都そばチェーンの立ち食いそばのような、内容密度の低い白黄色の揚げたてんぷら粉せんべいではなくちゃんと中身のあるてんぷらであり、阪急駅そばのような、噛み切るときの悲しくはかない抵抗感ではないしっかりとコシのある、それでいて流れるような嚥下感のする麺でした。童貞喪失時のように、感動をじっくり噛みしめる間もなく1回目をツルリと食べ終わってしまったわたしは、うどんそのものを味わうために再度展示コーナーにとってかえし、ねぎ、おろししょうが、醤油のみのうどん小を注文し100円支払い、じっくりと2杯目を味わったのでありました。汁のないこのシンプルなうどんは実においしかった。数多くの相当にきびしい味覚鑑賞者に耐え得てきた「うどん市場」の自信、自負、威厳、矜持がこのねぎ醤油うどんに現われているのです。同行者も同様お代わりし、そのコスト・パフォーマンスの高さに感動を分かち合ったのでした。
 公演の翌日、再び佐藤さんに会い、
「うどん」
と言うと、
「はい。わかりました。ちょっと遠いから公用車でお連れしましょう」
と、今度は屋島の麓にある田舎屋敷風の「わらや」へ。ここはテレビなどでよく紹介される有名店です。
 4人で腹いっぱいになる木桶に入った釜揚げうどん、2200円(料金調査協力:嶌田治記者)。だしじゃこをたっぷり使った自家製タレが絶妙。もちろんうどん本体の質の良さは言うまでもありません。高松の人は、うどんは噛まずに飲み込むので早くたべるのだと聞いていましたが、われわれはまだその域には達していません。それでも、飛び散る熱湯と箸からの麺脱落を気にしながら、割りとからめのタレに浸した長い長いうどんを口中に移送する作業を黙々かつ迅速に行ったのであります。アッという間でした。そして最後は、うどん湯で薄めた汁をズルズルと啜り有終の美を飾ったのであります。
 この「わらや」でも前日に劣らず感動したわれわれは、このようにおいしく安いうどんを毎日食べることのできる高松市民を羨みつつ、対岸の福山市へと旅立つのでありました。
 と、ここまでは一応状況説明です。ここで考察に移りたいと思います。安価高品質は文化度を推測する基準の一つである、という考察です。
 一般に人(一切ゼニカネを気にする必要のない種類の人は除く)が感動する要因はいろいろあると思います。コストパフォーマンス(原価当たり性能。費用対効果比率。投資とその効果を比較した評価値-『知恵蔵』)の高さは中でも最も重要な要素ではないか。
 たとえば、その名が冠されればたいていどこでも最低1万円はかかるであろうと思われている神戸牛ビーフステーキが、ふらりと入った店では同等の質量で1000円ポッキリだったとしたとき、人は(少なくともわたしは)感動を覚えるのです。逆に「1万円か、ま、こんなもんやろな」と注文したステーキが、期待した質、量ではない場合、人は(少なくともわたしは)、二度とくるものか、皆にこの事実を知らしめ誰もこないようにしたい、許せない、といった憤りを覚え、ときには力を込めてドアを閉めたり、表の看板を蹴飛ばしたり、わずかに口をつけた料理をそっくり残し决然と席をたち、憤然とゼニを払ったり(わたしの場合は非常に稀ですが)、主人にゼニ返せと抗議し、そのような店がたまたま通過ないし短期滞在する初めての町で入る最初の店であれば、その店に対する憤りは店の所属する町への憤りと変化し、内向的な人はそうした店を選んでしまった自分に怒り、そうした自分の人生をののしり、そうした自分に従う同行者すらを罵倒し、といったように憤り対象がどんどんと拡張するという大変なことになってしまうのであります。
 一般にわれわれは、費用対効果比率の基準をそれなりにもっていまして、それは社会的諸関係に対する観察および考察によって暗黙の内に構築されます。これをここでは「ま、こんなもんか」感基準と定義します。この「ま、こんなもんか」感基準の対象とのズレは、ときには感動、ときには憤り、ときには基準の修正をもたらすわけであります。
 で、うどんです。高松のうどんはあんなにおいしいのに、なぜあんなに安いのか(こんなふうに言うと、たった3軒の店に入っただけなのにそんなこと言えるか、という問題にかかわりがあるのではないかとの印象を抱きますが)。
 その解答は、確とした高松うどん文化あるいは讃岐うどん文化の存在にある、とわたしは考えたいのであります。高松うどんの安さとおいしさ、それを提供するうどん店の経営成立の背景には、それを奨励支援する市民の文化を想像させるのです。まずくて高いうどんは許さない、という市民の圧力を感じさせるのです。高松にはうどんしか食べるものがないわけではないのですから、うどんは市民の生命維持必須食品ではない。一年ぐらい「うどん断ち」をしても、一生うどんに縁がなくても生きていけます。となると、高松のうどんは単なる食品ではなく、共同嗜好であり文化だといえます。
 店の経営ということだけを考えれば、関西並みに多少高くすれば楽してより多くの利益を得ることができますし、何もしんどい思いをしてうどん屋をしなくてもいくらでも他の生計および利益追求手段があります。しかし、「うどん市場」や「わらや」の姿勢は、昨今の日本の大勢であるこうした利益優先ゼニカネ優先コンセプトとは若干異なり、よりおいしくより安く、が大前提にあるのではないか。市民は市民で、ほうぼうのうどん屋でうどんを食べ、鑑賞能力を養い舌を洗練させ、うどん哲学の蘊蓄を傾け批評しあう。そのような市民が相手であるから提供側も、ちょっとでも気を抜いたり儲けのみに走ると、あそこはあかん、とたちまち暗黙あるいはあからさまな攻撃に晒されるから、ますます切磋琢磨する。こうした好循環が、高松の栄光のうどん文化を開花させ維持させている、とわたしは思うのであります。そして、食という生活に根差したものだから、その文化にはゆるぎがない。ゆるぎがないから「高松世界うどん博」も「今世紀最大のうどんショー」も「高松うどんグルメ大賞」などという、本来そこにしっかりと存在しないがために景気づけの意図をもって行われる種類のうわついたイベントも要らないのです。
 それにひきかえ、グルメシティ、食い倒れなどと自称するわが神戸や大阪には、はっきり言って誇るべき食文化があるとは思えない。なぜなら、高松のうどんのように、安さと高品質を同時に楽しめる店が少ないからです。「ま、こんなもんか」感基準を高価な方でくつがえす店はたくさんあるが、安価方面ではない。常にゼニカネを気にせざるを得ないビンボー笛ふきおよび主夫であるわたしは、リーズナブルな安定感よりも、驚きのある感動が欲しいのです。
 と、高松のうどんについて書いてきましたが、考えてみれば、うどんを音楽や美術や演劇と言葉を代えても、本考察のテーゼである「安価高品質は文化度を推測する基準の一つである」が成り立つのではないかと思いますが、いかがでしょうか。たかがうどん、されどうどんでした。

1992 Nov.