第4次讃岐うどんツアー2003

赤のマイクロバス

udon 前回の第3次讃岐うどんツアーは、1999年2月。前世紀の話です。今世紀になって、讃岐はその存在をますます誇示しつつあるかのように見えます。讃岐発全国チェーンなんてものも出現しました。では、4年ぶりの地元の讃岐うどん状況はどうなっているか、を探るために再び讃岐に行って来ました。などと書くと大げさですが、要はわざわざ讃岐までうどんを食べにいくほどヒマだということです。
 今年の八雲村の庭火祭の前々および前夜宴会で、自身も蕎麦を打つ麺好きのシュウちゃんこと三好修一さんに、わたしがひそひそと、話半分につぶやいた「讃岐ツアーにでもいきましょうか」が、これほど大々的なツアーになってしまうとは誰が想像し得たでしょうか。ま、半分は想像できましたけどね。
 数日前、瀬古さんから「いやあ、参加者がどんどん増えちゃってね。そいじゃけん、マイクロバスで行くことになったんです」という電話がありました。マイクロバスとは大げさな、とそのときわたしはふと思ったのでした。しかし、新神戸から新幹線で走ってきたわたしが待ち合わせ場所の岡山駅で目にしたのは、うどん想念充満者で充満した赤のマイクロバスなのでした。
 参加者は、瀬古康雄さん、奥さんの喜代栄さん、長女の三千恵ちゃん、次女の真奈美ちゃん、件の三好修一さんおよび奥様の由紀子さん、米田裕幸さん、有馬勇さんおよび長女の美由紀さん、石倉雅幸さんおよび娘のさちえさん、バングラデシュ人留学生夫婦アハマドとヴィヴィ、赤浦和之さん、坂本智史さん、藤田誠さん、松原吉司さんの島根組とわたしを入れて総勢18名。これまでのツアーでは最大人数です。
 まだ世界は朝だというのに「どう、ヒロッサン、ビールでも。焼酎もあるよ」と最後部座席に座る中年建築家、米田さん。「げっ。酔っぱらったらうどんを正しく鑑賞できない」と辞退すると「そうかあ。でも、ちょっと胃袋を消毒しないとね」と中年建築家はほんのりとした赤ら顔で申し述べ、横に座った仏顔中年造園業の有馬さんが缶ビールをぐびっとあおって頷く。

一路、讃岐へ

 岡山を出発したうどん想念充満バスは、一路、讃岐へ。わたしが讃岐うどんの基本的摂食態度とコースを説明したあと、中年細身短大教授の瀬古さんが「ええ、このツアーは、今年の庭火祭の反省会も兼ねた、いわば公式イベントです。じゃあ、みなさん一言ずつ申し述べて下さい」と発言し、車内はいきなり会議モードに変化したのでした。しかし、うどん目になっている参加者はみな短いコメントを申し述べただけ。すでにうどん渇望感が車内に満ちていたのです。
「ねえ、ヒロスさん。やっぱり、あつあつよりもひやあつの方が、うどん本来の味わいというか、正しい食べ方なんでしょうね」
 わたしのすぐ後ろの席の中年水道工事業兼将来蕎麦屋開店を目指すシュウちゃんが、真剣な表情で尋ねます。
「いやあ、まあ、好みですからね、どっちでもいいでしょう」と答えると、かたわらの由紀子夫人が頷く。
「これ何キロある?」
「10キロくらいかな」
「ダッカにもすごい吊り橋があるんだ。通行料はメチャ高いけどね」
 瀬戸内海をまたぐ本四架橋を通行中、留学青年アハマドはチラッと対抗心を抱きつつ申し述べるのでした。おそらく、隣の快活配偶者ヴィヴィと彼だけは、なんでみんなうどん目になっているのか理解していないのではなかったか。彼らにとっては、留学地の島根から小旅行に出かけることの方が興奮だったに違いありません。

谷川

 さてわれわれは右手に讃岐富士を見上げつつ438号線を南下し、11時10分前に「谷川」に到着しました。今回は、最南端から順次北上するという作戦で、開店時間を計算に入れ1番目に「谷川」を選んだのです。この店は、看板もなにもなく、坂なりに連なる行列だけが目印の店です。11時開店にまだ間があるというのにすでに20メートルほどの列ができ、うどん椀を抱えた客が列を尻目に摂食開始。
「ここらへんは何回も通ったけど、こんなところにうどん屋があったとは。どうりでいつも路肩に駐車するクルマが多かったなあ。そういうことだったのか」。今回のマイクロバスを提供しずっと運転手を勤めたほぼ中年ハイヤー会社専務の松原吉司さんの第一声でした。
 さっそく列に加わった大部隊は、ここで恐るべし讃岐うどんの洗礼を受けたのでした。店内はぎっしりの満員でした。
「んー、あっという間だった。やさしいコシだった。たしかにうまい」(頭髪僅少中年大学教授、赤浦氏)
「なにか物足りない。もう1玉食べたかった」(仏顔中年造園業の有馬さん)
「どうでしたか?おいしいでしょ?」
「はい、オイシイです。おなか空いてましたから」
 笑顔のバングラデシュ女性、ヴィヴィさんが日本語で答える。
「辛いのたくさん入れたので、オイシカッタ」(アハマド)
 麺そのものの質はどうでもいいような感想。
「やっぱり、違うわな、たしかに。よし、今日はしょうゆ一本やりでいってみっか。やっぱ、これもってきてよかった」
 持参したゆず入り七味をポケットから出して見せびらかす米田さん。
「うん、ほんに、たしかにうまい。それにしても100円は安い」(瀬古さん)
 食べ終わった部隊員は、どんどんやってくる客の行列を眺めつつそれぞれ感想を申し述べるのでした。

宮武

udon 次の店「宮武」へ移動開始しました。とりあえず空腹が満たされたという表情の隊員たちは、わたしが世界一と評する「谷川」のうどんをしみじみと味わう間もなくつるんと食べてしまったので、こんなもんか感も漂っているようでした。
 プロの運転手、松原さんの地図の読みが的確なのでまったく迷わずに琴平町の「宮武」に12時過ぎに到着。店からちょっと離れたところには大きな専用駐車場が整っていました。わたしが最初にこの店に来たときは、路上駐車だったので、やはり讃岐は少しずつ変化しているようです。
 本道からちょっと入った店の入口にはたて3列の床几が設置され、隙間なく待機客が座っていました。のれんの隙間からは店内の満員の客がうどんをすすっているのが見えます。わたしが車内で「この店は、玉数、ひやひや、ひやあつ、あつひや、あつあつを迅速に申告するシステムです」と説明したせいか、有馬さん、瀬古さん、米田さんらが事前調査のために店内をのぞく。かけうどん小1玉230円という値段を確認した隊員たちは財布から小銭を取り出して握りしめる。有馬さんは入口近くに山盛りになったテンプラ類のトッピングにいち早く注目し、いかげそ天を注文する決心をわれわれに告げる。「うどん生地はあんまり寝かせていない感じですね」と店内の製造現場を観察したシュウちゃんはプロデュースサイド的意見を申し述べる。シュウちゃんは、自身が蕎麦うちなためか、製造工程により関心があるようでした。
 ほどなく床几待機組が店内に案内されたので、われわれ一団がどやどやと床几に着座し、「こうやって外で待つというのもいいですねえ」などといいながら点呼を待つ。
 先発組が団体の旨を伝えたためか、床几隊に「石倉様のお連れ様どうぞ。何名ですか?18名。はい分かりました。中に入って下さい」の点呼がかかりわれわれは床几組から店内組に身分が上がったのでした。
 この店は、以前は、のれんをくぐったとたんに注文品種・数量を即座に申告していました。ところが、名前注文品記述方式に変えていました。記憶に頼って間違えるよりも堅実なやり方です。「中川、小、かけ」と書いたわたしは奥の席に。5分ほど待つと注文したものが運び込まれてきました。一気にすすりこみました。つるつるしこしこして、実に、うまい。以前来たときは、強豪である「山内」「谷川」と連続してきたせいかぼんやりとした印象しかなかったのですが、これほどの実力だったとは。だから讃岐は奥が深いのです。どんな店でも侮れないのです。
 いろんな店を体験するなら、各店1玉トッピングなし方式がベターである、というわたしの忠告を無視した有馬さんやシューチャンがテンプラを食べています。うまそうでしたがぐっとこらえましたね。あとで有馬さんに聞くと「うどんはおいしいけど、テンプラは、まあ、普通だね」ということでした。わたしの向かいに座ったアハマドは、一味唐辛子をがばがばかけつつ「うーん、オイシイです」などと申し述べる。
 店内滞在時間約15分で「宮武」うどん摂食完了。バスに着席した満腹幸福顔の隊員たちにわたしは次の尋ねました。
「つぎ、どうしましょうか。いったんここでうどん休憩にするか、このまま次の店に突入し摂食畳みかけ攻勢にでるか」
「わたし、もうハイラナイ」とヴィヴィさん。
 坂本青年の決然とした「畳みかけたい」の主張に、松原さん、有馬さん、米田さんも同調してうなずく。それほど大げさな感想を申し述べるわけでもなく淡々と男どもに従う喜代栄さん、きちんと朝食は食べてきたという三千恵ちゃんと真奈美ちゃん、三好由紀子さん、有馬美由紀さん、接客業アルバイトの石倉さちえさんの女性陣からも強い反対がありませんでした。まだイケマスヨ、というサインなのです。

山内

 3玉レンチャン摂食を目指すという方針が決まったので、われわれは仲南町の「山内」を目指してクルマを走らせる。
 この店は何度行っても分かりにくい。こんもりとした山とそれに並行して走る蛇行した道という似たような風景が讃岐には多いからです。案の定、まったく違うコスモスの咲く脇道に入ってしまいました。しかし、冷静な松原氏は、大きなバスを狭い道でUターンさせた後、地図を見ながら正しくクルマを走らせるのでした。やはりプロは違うものです。
udon 琴電と並行する道を走っていると、踏切のところにありました。「純手打 うどん 左100メートル やまうち」の殴り書きしたそっけない看板が。このあたりは農家しか見あたらず、どうみてもうどん屋があるとは思えないロケーションなので、この看板だけが目印です。道を走っていたらなにげなくうどん屋があった、というような出会い方は絶対無理な店です。積極的に「山内」にうどんを食いに行くのだ、という強い意志がなければ到達できない。
 踏切をわたって直進すると、店のよりも大きな「やまうち専用駐車場」の看板。「宮武」同様、ここも押し寄せるクルマ対策に対処しています。やはり讃岐は変化していたのです。その駐車場には入らず、竹藪が取り巻く曲がった山道を上りきるといきなり「山内」です。すでにクルマが何台も駐車し、お昼もとっくに過ぎたというのに店内には客がわさわさとうどんをすすっているのでした。
 かけ、ひやあつ小1玉+かき揚げ、300円也。もちっとコシの強いうどんはやはりこの店の特徴です。とはいえ抵抗なくするすると入ったものの、やはり3玉目となるとかすかに胃に重量を感じるのでした。
「もうかなりお腹いっぱいになったでしょう?」
「なあに、何回かジャンプすればまだ余地がある」と持参ゆず七味をポケットに入れる米田さん。喜代栄さん、三好夫人は入口に積んであったみかん500円をそれぞれ購入。
「わしは、ここのうどんが一番じゃないかな思うけど」とは、藤田さんと石倉さん。わたしには「谷川」がなんといっても好みですが、この「山内」を一番に挙げる人も多いようです。
「ぼくは、やっぱり、ヒロッサンのいうように、谷川だね」というシュウちゃんがコメントを申し述べる。
 ふう食った食った感の残る隊員は再び移動。もはや誰からも「畳みかけたい」コールがないので、金刀比羅山にお参りしてエネルギーの消費をはかろうということになりました。
「ちょっとここに寄っていきたいんですが」という松原さんの提案でわれわれは「道の駅」で下車し、野菜などを購入しました。安くて新鮮そうな野菜が並べられていました。いくら安いからと行ってここでわざわざ野菜を購入する必然性はあまりないにもかかわらず、買ってしまうんですね、これが。わたしは、里芋、キノコ、茄子の辛し漬け、シシトウを買ってしまった。ここで旺盛な購買意欲を示したのがバングラデシュ人留学生夫婦でした。まるで買いだめのようでした。よほど普段は野菜が高いと思っていたんでしょうね。

金刀比羅山

 松原さんのよく立ち寄るという土産物屋の裏の駐車場にバスをとめ、金刀比羅山にお参り。赤黒赤のビニールテープが中央に巻かれた竹の杖を土産物屋からお借りする。杖なんてと思いましたが、これがのちのち役に立ちました。ほとんど同じ商品を売っている土産物屋が両側に連なる石段を登るのはきつかったのです。ここの石段は700段以上あるのです。途中で足ががくがくしてきます。白い巡礼着と杖をもった四国八十八ヶ所巡礼者たちも登っていきます。なかには80歳だというお婆さんもいました。「去年は富士山に登った」というから、相当元気なお婆さんです。
 途中に、飴を売る簡易屋台が並んでいました。そのなかの美人女性売り子から「どう、食べてって」といわれたわたしはふらふらしつつ飴のかけらをもらいました。加美代飴という名物だそうです。代々5軒のみがここで店を出すことが許されているとのこと。戻り道で結局その美人女性売り子から飴を買ってしまいました。
 700余段を登り切り本宮に到達しました。うどん1玉分は消費したはずですが、わたしの胃はまだ重いのでした。ちらほらと紅葉の兆しのある木々を通した眼下には讃岐平野が広がっています。讃岐富士や本四架橋もうっすらと見えました。ここでわれわれは記念撮影。といっても、ヴィヴィさんは登攀断念、米田さんはいつも来ているからとどこかに消え、と全員ではありません。
「あれっ、三千恵はどこかなあ」
 さあ下山だ、ということになったとき瀬古さんがつぶやく。
「あら、変だわね、登ってきたよね」と、のほほん喜代栄さん。
「たしかに登ってきた。途中までいっしょにしゃべりながら来ました」わたし。
「ひょっとすると美由紀と奥の院にいったかも。ちょっとまってね」と携帯を取り出してダイヤルする有馬さん。
「うんうん、・・・そうか。了解」
「やっぱりそうでした。一緒でした」
 美由紀さんと三千恵さんがほどなく降りてきました。
「もう500段以上あるんだって。まだ半分しか行ってないところで電話があった。山道では急に涼しくなったよ」
 下山途中、お揃いのジャージーを着用した老人団体を「東広島ゲートボールクラブであろう」と予測したわたしが彼らに聞くと「いやあ、ねんりんピックのマラソン選手なんですわ。富山から来ました」とのこと。
「歩き方がびしっとしいる。いやあ、大したもんだ」と、瀬古さん。
 土産物屋に帰ると、オカミサンがお茶とうどんをサービスしてくれる。濃い出しのうどん質は、3軒の専門店にくらぶべくもない。店内のホラ貝を触ったりしているうちに全員集合し移動となりました。

中村は断念

「これだけ運動しましたから、次の店に行けますよね」
 みんな、どんよりと頷く。
「じゃあ、畑からネギとってこい、で有名な中村へいきましょうか」
「行きたい」坂本さん。
 となったところで資料を確認すると、なんと「中村」は午後2時で閉店と書かれてありました。うどん質の評価はともかく、最もディープな典型的讃岐うどん店を紹介したかったのですが断念せざるを得ませんでした。
 ということで、われわれは丸亀市の猪熊玄一郎美術館見学後、市内のうどん屋で仕上げの1玉路線に変更しました。丸亀に向かう車中は、満腹と疲労からくる睡魔に身を任す隊員続出でした。

丸亀市猪熊玄一郎現代美術館

 谷口吉生によって設計された超モダンな丸亀市猪熊玄一郎現代美術館を訪ねるのは、1999年の第2次ツアー以来でした。丸亀駅や付近の商店街のたたずまいからすれば相当に異質な建物です。大きすぎて駐車できないマイクロバスの処置を松原さんに任せたわれわれは、入場料850円を支払い美術鑑賞。うどんに比べて高い。讃岐では美は食よりも高価なのです。展示作品の量をはるかに凌駕する広々としたスペースが気持ちいい。その日は所蔵作品展覧と同時にイギリスの現代美術を紹介する「In Print」展が開かれていました。
「うーん、どうも、わしにゃあ分からん」と石倉さん。
 丸亀市内のうどん店は経験がないので、退屈そうな美術館の監視女性に尋ねました。
「そうですね。いっぱいありますからね」
「××さんのお気に入りは?」
「つづみ」
「どこにありますか」
「商店街を入ったところです。受付に市内マップがありますからそれを見て下さい」
 美術作品をさっと見終わった隊員たちにこの情報を伝えると、よかった、という表情が伺えるのでした。
「わたしはもう少し見たい」という喜代栄さんと真奈美ちゃん、三千恵ちゃんを除いた隊員は歩いて商店街に向かいました。わりと閑散とした商店街では、ときおり御輿をかつぐ子どもたちに出会いました。

仕上げは「渡辺」

 そこらへんの人に尋ねてようやく探し当てた「つづみ」にたどり着くと、アンチャンが暖簾を片づけ始めています。
「もう、今日はうどんがなくなっちゃったんですよ。スミマセーン」
「5時までと書いてある。今、4時45分である」
「なんですが、うどんがなくなっちゃって」
 というわけで、われわれはおもちゃのような丸亀城の天守閣を左手に眺めながら駅前に戻るのでした。美術館横のマイクロバスに戻ると、松原さんは「ぼく、さっき1軒いってきちゃった。この辺では、うどん生地は寝かせないらしいですね。寝かせてもせいぜい1時間とそこのオヤジがいってました」などという。それを聞きつつわたしは今回のツアーの仕上げにふさわしい店を選ばなければなりません。幸いにもわたしのノートには念のために丸亀市内のうどん店のリストがありました。「つづみ」のような事態も考えられるのでそのリストにある店に片っ端から電話をかけました。だいたいにおいてこの辺のうどん屋は5時には閉店します。何軒かは応答もない。最後に「渡辺」に電話すると、閉店は6時、今からでも大丈夫、というので決定しました。仕上げは「渡辺」でした。
 薄暗くなった市内を探して角地にたつ「渡辺」に到着。奥さんらしい女性が「今、うどん打ってますから」と元気よくわれわれを客席に案内する。店内には、これまでのうどん屋にはなかったおでんが中央でくつくついってました。値段はやや割高、といってもかけうどん小が250円。やはり都会のうどん屋です。テンプラうどん、やまかけうどんなどと並んでしょうゆうどんが同一価格なのを不思議に思った米田さんは、大根おろしとゆずが到着したので納得していました。依然として一味どばどばぶっかけ派のアハマドが「ここのうどんが一番。はははは」と申し述べる。彼が正しく讃岐うどんを賞味できるにはあと120年はかかるかも知れません。わたしはかけうどん小を頼みました。小といってもここのうどんは、神戸なんかで食べる立ち食いうどんくらいの量です。うどん質としては決して悪くはありません。ただ、都会派うどん店だからかうどん麺以外のアイテムが多すぎました。うどんしかない、というきっぱり感がない。それにしても隊員たちはよく食べます。同行した比較的静かな女性たちも黙々と食べるのでした。食べるのが遅い、といわれ続けたヴィヴィさんは、みんなが帰り支度をしている間も丼に箸を動かすのでした。神戸出身の赤浦さんは、この「渡辺」できつねうどんを発見して狂喜していました。われわれだけのために新たにうどんを打ってくれた心意気を高く評価したい店でした。バスが見えなくなるまで入口で見送ってくれた奥さんの態度も立派でした。
 こうして第4次讃岐うどんツアーはつつがなく終わりました。1玉平均220グラムとすれば、今日は880グラムのうどんを摂取したことになります。わたしのお腹は破裂寸前でした。
 岡山へ向かう車中、前席の赤浦さんと、市販のうどんのコシにはタピオカを使っている例もある、コシは歯に対する抵抗感ではかるべきか、実は僕は学校で食品学を教えているんです、関西は麺にではなく出しに愛情があるのだ、などとしゃべりあうのでした。
 シュウちゃんから匂い茸入り炊き込みご飯おにぎりと日本酒をもらい、これもこれもという缶ビールをごっそり袋に詰められたわたしは、岡山駅で新幹線に乗り、無事我が家にたどり着きました。
 2日後に届いたシュウちゃんのメールには、「あれから後で、蒜山パーキングで米田さんはらーめんを、小生は蕎麦を食べたのでありました。米田さんの胃袋は解りませんが、小生は蕎麦を食べて、人心地ついたのでありました」とありました。実に恐るべき島根人の胃容量なのでした。
 庭火祭実行委員会主催讃岐うどんツアーは、どうも恒例化しそうな雰囲気であります。

書き下ろし(2003年10月23日)