那智の滝……神々しき?「日本の音風景一〇〇選」

 勝浦町の知人宅を訪問したついでに那智の滝へ行ったときのことだ。那智の滝は、滝そのものをご神体とし、古来の自然崇拝の代表的なものである。したがって「大社」とはいうものの、熊野那智大社には一般の神社のような本殿も拝殿もない。その高さと姿で「日本の滝一〇〇選」、その勇壮な落下音で「日本の音風景一〇〇選」にも選ばれている名所で、訪れる観光客も多い。
 参拝客は、うっそうとした杉の大木に囲まれたゆるい石段を下り、拝殿にあたる空間へと誘われる。私は、地響きのするような水の落下音に包まれて、百メートルに及ぶ高さから渓流が真っ白な筋となって落ちる姿を真正面で見上げた。信心のない私でも自然の造形美と崇高さに思わず手を合わせたくなった。そこへ、滝の落下音をはるかに凌駕する音量で案内アナウンスが響き渡った。「那智の滝の高さは133メートル・・・通行券300円で滝壺へお参りできます」といった内容だった。滝の音そのものがかなりの音量なので、当然スピーカーの音量はそれよりもさらに大きくしなければ聞こえない。この大音量の案内は、マイクをもった白い神官装束姿の男二人が社務所のような建物のなかで交代で行っていた。アナウンスは二、三分間の間をおいて休みなく続けられた。
 同行していた友人とわたしはとても不愉快になった。これでは自然崇拝も「日本の音風景一〇〇選」もあったものではない。われわれは大社の存在意義を諭しつつ、神官装束男たちにアナウンスの停止を求めた。男たちは得体の知れない生き物を見たように一瞬ぽかんとした。そして、われわれの主張を理解するや、みるみる傲岸な表情になり、その必要性を大声で主張した。われわれの抗議はまったく聞き入れられなかった。それでもさらにしぶとく抗議を繰り返すと、男の一人が開き直ってこういった。「あんたらお賽銭もあげてないやないか。文句をいわれる筋合いはない」。
 ごった返すなかでお賽銭を投じない参拝客を見分けていたことにも驚いたが、はなから抗議を受け入れようとしない態度と、理屈にならない理屈ではねつける傲慢さにはもっと驚いた。まるでやくざかと思ったほどだ。神官のように見えたあの二人は、ひょっとしたら滝壺通行料だけで生計を立てているのかもしれない。それくらい、彼らの態度には頑迷さと生活感が感じられた。埒があかないので、そこにあった公衆電話で熊野那智大社の事務所に抗議の電話をした。電話に出た人間の応対にも、先の二人ほど激しくはないものの、絶対止めないぞ、という強い意志が感じられた。
 滝はときおり、なにかの爆発音のようなくぐもった音を出した。ご神体である那智の滝が抗議しているかのようだった。しかし、そんな滝の無言の抗議は神官装束男たちには届かない。彼らにとってカミは単なる生計の手段なのだ。男たちに、バチがあたるぞ、といってやりたかった。しかし、カミは彼らにバチも与えられないほど弱々しく思えた。 

雑誌『AMENITY』 2007年5月号 掲載原稿