ころから47年

 2年のとき同じクラスだったKが、当時の写真のコピーを見せていった。
「ほらあ、おめはいっつも同じポーズとってっぺ」
 たしかに、写真のわたしは常に顎に手を乗せたポーズをとっている。かなり恥ずかしい。
「これ誰だっけ」
「ああー、Fだあ。2年のどき、よぐ遊んでだべ」
「えー、んだっけがあー」
 はるか昔の記憶にまったく自信がない。
 先日(2015年10月11日)、長井市内の旧家の古い蔵を改造したスタジオで地元のジャズサックス奏者と演奏した後のお開きの宴での会話である。それぞれのかすかな記憶を頼りに高校時代の思い出や、他の級友の消息や噂話などで盛り上がった。
 Kと会うのは卒業以来なので47年ぶりだ。他の同級生とも久しぶりの再会だった。
 もうそんなに経ってしまったのだ。ブラスバンドでトランペットを吹いていたころから47年。合唱部で歌っていたころから47年。防具をつけて竹刀を振り回していたころから47年。どこに進学するか悩んでいたころから47年。
 卒業後、なんとか北海道の大学に滑り込んだものの、学生運動の嵐。ヘルメットをかぶってデモをしたりしているうちに留年し、嵐が収まると1年間休学して東京でアルバイト。貯めたお金でさらに1年間、ヨーロッパとアジアを放浪した。大学には結局7年間在籍し、担当教授のベタ誉め推薦状をもらって大阪の某大手メーカーに就職するも3年後に倒産し、同時に結婚。神戸の中堅工務店に3年勤めた後、夫婦でインドの大学に留学。31歳だった。インドで3年間、インド音楽理論やバーンスリーという竹笛を習った後、ヨーロッパ経由で帰国したころはバブル経済の真っ最中だったが、バブルともまったく縁がなかった。
 その後もバーンスリーの師匠に習うためたびたびインドを訪れた。国内での演奏活動も始めた。帰国後住むことになった神戸で、ある日スナックで偶然知り合ったお坊さんに頼まれて京都・知恩院の開山上人750年大遠忌記念音楽法要の企画と実行に関わった。それからは、いちおうフリーランスのミュージシャン兼音楽プロデューサーということになった。ミュージシャンとしてアジア各地を訪れ、プロデューサーとしてアジアと日本音楽のコンサートを企画制作した。仏教音楽である聲明(しょうみょう)の舞台公演を行うお坊さんバンド<七聲会>も主宰し、プロデュースした。
 そうこうしているうちに阪神淡路大震災が起きた。間もなくフランスとスイスで被災者支援イベントが開かれ、仲間とともに彼らの義援金の受け入れ先となった。彼らとの交流でフランスやスイスに何度か行った。2000年、<七聲会>がロンドンの音楽祭に招待され、イギリス各地で公演を行った。以後、<七聲会>はほぼ毎年、イギリスばかりでなくヨーロッパ各地で公演することになった。そのうち友人に頼まれて大学でアジア、日本の音楽や仏教音楽についてしゃべるようになり、現在も続いている。
 わたしの高校卒業からの出来事を大急ぎで編集するとこんな風になる。
 こんなわたしに誰がしたではないが、今は亡き両親や小中学校、大学、会社、これまで出会った多くの人々とともに、わが長井高校も少なからず加担しているはずだ。

     鷹桜同窓会報第34号(2015年12月15日)特別寄稿
      鷹桜同窓会=山形県立長井高等学校同窓会