サイキック・ナミング psychic numbing

 この言葉は、NHKの正月番組で大江健三郎と立花隆が対談していたときに出てきました。
 意味は、心理的麻痺状態です。人間が大規模な破壊などの変動に直面したとき、そうした変動に対する判断や対処から逃避し心理的麻痺状態になってしまう現象。などと大げさに書くとにわかに大変なことになってしまうのですが、要は、たとえば、このサマーチャル・パトゥルを書かねば書かねばとずっと考えていたのに、インド音楽愛好関係者農閑期に入って時間もずっとあるのに、やらなければならない仕事もずっと少ないのに、コンピューターの電源を入れ、さあ書くぞ、と決意してキーボードに触れたとたん、にわかに頭がぼんやりし、やりきれないほど非生産的で終えたあとがっくりと後悔の念に苛まれるコンピューターゲームに、気が付くと何時間も費やしていたりするようなときのわたしの心理状態に近いのかな、あるいは、銃殺寸前の人があと数秒後には確実に死ぬことが分っているのに、射手の服にかすかに残るコーヒーの染みが気になったりするような心理状態のようなものかと理解したのでありました。
 番組では、人類の危機との関係でこの言葉を使っていました。たとえば、いま地球的規模で環境問題が深刻になってきています。この環境問題は、単なる自然環境破壊進行という意味ではなく、いわゆる南北問題や人口問題、政治的経済的問題などすべてがリンクしあっている複合的な問題です。いまのままいくと、いずれは地球は破滅し人類は絶滅する、といわれれば世界中のだれもが納得し、何か対処しなければと誰もが思うわけです。しかし、そういう問題が厳然とあり、それに対してなんとか手を打たなければと誰もが思っているにもかかわらず、それがあまりに大きく危機的でややこしい問題であるために、サイキック・ナミングに陥ってしまう。なすすべもなく確実に状況の悪化が進行していく。大量のエネルギー消費による二酸化炭素の放出で地球が温暖化していく、深刻なことになりますよ、という新聞記事やテレビの報道を見て、ふんふん、なるほど、さあ、たいへんだ、ほんま、どないなるんやろか、気いつけなあかんなあ、などと考えるのに、ちょっと寒かったり暑かったりすると、ま、とりあえず、いいか、てな感じでエアコンをつけ、歩ける距離にもかかわらず、公共交通手段を使った方がずっと速く安く確実に着けるのに、明らかに渋滞が予測されているのに、ま、とりあえず、いいか、てな感じで、自家用車に乗る。こうしたもろもろの個人的なささいな、「ま、とりあえず、いいか」感覚の集積が問題なのでありますね。この、「ま、とりあえず、いいか」と思った瞬間が、心理的麻痺状態、すなわちサイキック・ナミングなんでしょうね。
 こう考えてくると、わたしたちは日常的に「ま、とりあえず、いいか」を繰り返しているわけです。現にわたしは、のどがひりひりするのに、毒だと分っているのに「ま、とりあえず、いいか」とタバコを吸っているのです。人類というのはこれまでいろいろな智恵と想像力を獲得し、かなりの精度で未来を予測したりすることができるようになっているわけなのでありますが、その予測が明るい場合はいいとして、個人個人の手に負えないような危機的未来が予測されるようになってくると、「ま、とりあえず、いいか」的サイキック・ナミングに陥り、結局、絶滅へのスピードアップを無意識にはかっているのであったのであらうか、とテレビを見つつ考えたのでありました。できるだけ「ま、とりあえず、いいか」をやめたい、というのがわたしの、「ま、とりあえず」の年頭所感でありました。

サマーチャール・パトゥル第9号(1991)より