AFO2003

■6月11日(火)~7月8日(火)/"Asian Fantasy Orchestra" Asean Tour 2003/バンコク(タイ)、ヤンゴン(ミャンマー)、ビエンチャン(ラオス)、ホーチミン(ベトナム)/ミュージシャン/仙波清彦:パーカッション・隊長 、久米大作:キーボード 、金子飛鳥:ヴァイオリン 、梅津和時:サックス・クラリネット、三好功郎:ギター、坂井紅介:コントラバス 、中原信雄:エレキベース、新井田耕造:ドラムス、山田貴之:パーカッション、竹井誠:篠笛・能管・尺八、望月圭:邦楽打楽器、中野律紀:奄美島唄、賈鵬芳:二胡、姜小青:古箏、中川博志:バーンスリー、アニーシュ・プラダーン:タブラー、グレース・ノノ:歌、高橋香織+相磯優子:ヴァイオリン、志賀恵子:ヴィオラ、笠原あやの:チェロ

 95年のシンガポール、クアラルンプール、ジャカルタ、98年のニューデリー、ボンベイ、ホーチミン、マニラについで、AFOの3回目のアジアツアーでした。ほぼ1ヶ月のツアーなので書いた日記の文字数は5万字。で、ここに書こうとその日記を読み返しましたが、いったいなにを書こうかと悩んでしまうのでした。バンコク以外は初めての土地であり、共演した地元ミュージシャンや音楽も面白かったし、有名な観光スポットも訪れ、うまいものもうまい酒もたくさん飲み食いし、中原さんが古いパスポートで成田に来たり、わたしが本番で出忘れ本村さんに怒鳴られたり、仙波さんが本番中に排便危機に見舞われたり、梅津さんがピカピカの大理石で滑って肌頭を打ち付けたり、久米さんに強力下痢薬をもらったり、サンチャンや飛鳥にインターネットの使い方を教えたり、賈鵬芳さんが二日酔いになったり、ツアー中に誕生日を迎えた人たちが9人もいたり、福島さんが指を切ったり、ベニさんがラオス女性歌手と記念写真をとって狂喜したり、グレースが旺盛な布類の購買意欲を示したり、りっきが中華料理屋で歌ったり、隣室の小青の練習音が大きかったり、ストリングス隊を中心としたバーがほぼ毎日開設されたり、しました。しかし、特になにが印象に残ったのかとなると、もう一つ強いものがないのです。

 強い印象がない原因の一つは、今回のツアーが「旅」ではなく、「移動」に近かったからかも知れません。

 過去2回のツアーは、AFOの音楽スタイルを模索しつつあった時期で、個人と楽団の間にはまだそれなりの緊張がありました。しかし、今回は音楽の内容も人間関係も安定し、よりプロのバンドに近いものでした。

 広い遊び場を提供されて離合集散を繰り返しつつ遊びに熱中する子どもたちが、それぞれの性格や能力を互いに認識し共通するルールを発見し、そのルールにしたがって「遊び」という名の商品を提供するようになった、といっていいかも知れません。あるいは、新婚当初の幸福な好奇心のさぐり合いから安定した結婚生活に移った、ともいえます。まあ、わたしも含めメンバーやスタッフがそれだけ年をとったという単純なものかも知れません。

 ともあれ、AFOが新婚期から安定期に入り、それぞれの関係が緊密になってきたためにより密室化してきたように思えます。密室化というのは、関心の主題が外向きではなく内向きのベクトルに向かう、という意味です。この密室にどこか窓を設けて空気を入れ換える時期に来ているのかも知れません。とはいえ、それぞれがよく知り合うようになったのでいってみれば、まあ、家族のようなもんです。中にいるとそれなりに温くて快いことは間違いない。

 それにしても、ここまで苦労して育て上げてきた家長であるプロデューサーの本村さんには頭が下がります。みんなわがままで勝手なミュージシャンたちですからね。ホーチミンのレストランで、みなが口々にラオスはよかったというと、本村さんは「みんなに、あのもち米を食わせたかったからラオスを選んだ」といってました。食い意地の張っているわたしには、これにはぐっと来ましたね。いかにも家長であるオヤジの愛情あふれる言葉です。ミュージシャンに対する愛情、これもあれだけ苦労して続けてきたエンジンになっているのだと思います。

●バンコク

 日本の都市になぞらえば、さしずめインドシナの東京です。この大都市は1972年以来、何度も訪れていますが、そのたびに印象が変わります。以前は空港から都心部へ入るのにものすごい渋滞が日常的でした。しかし高速道路が整備されてからはスムーズに車が流れるようになっています。高層ビルもずいぶん建ちました。全体の印象は、シンガポールにひたすら近づく近代都市。とはいえ、貧乏旅行者のたまり場になっているカウサン通りのめまいのしそうなモノと人の氾濫もあるし、まだまだわたしの好きな「薄汚れた」場所は健在です。ただ、有名なタイ料理は、味の素と砂糖と油が強くなっている気がします。

 公演会場のThailand Cultural Centerと宿泊先のエメラルド・ホテルは、都心部からタクシーで1時間ほど離れていました。そんな関係で、エネルギーと費用と時間のかかる都心部へ行ったのは1回だけでした。まだ最初の訪問地だというのに買い物に狂奔するグレースとアニーシュにつきあっただけで、ほとんどはホテル周辺をうろついたり、会場との往復だけでした。深夜までエレキベースの重低音が響くホテルだったせいもあり、睡眠不足で朦朧としていたバンコクなのでありました。

●ヤンゴン

 ずっと雨だったことと、ヤンゴン空港での雰囲気、だだっ広く緑の多い街並みだったせいか、全体の雰囲気がちょっと重苦しい。ヤンゴンはインドシナの松江?

 薄暗い空港でのSARSチェック。天井の高い体育館のような入国管理所の照明は暗く、水滴が見えるほどの湿気と暑気の混合体を、天井のプロペラがゆっくりかき回すなか、マスクをした女性係官たちから体温チェック用のフィルムを額に押し当てられたのでした。この最初の入国プロセスがその後の印象に影響を与えたのかも知れません。

 街を歩く人々の表情もどことなく精気みなぎるという感じではないように見えました。金ぴか豪華でどことなく漫画の世界のようなシェーダゴン・パゴダやわれわれの泊まったパーク・ロイヤル・ホテル・ヤンゴンの豪華な内装と、1回数円の体重計屋や手相見やビーフン屋との落差が大きい。

 おいしいものはない、といわれていたわりには充実した食生活でしたが、これだ、というものが少ないのも事実です。阪神淡路大震災で被災したのを機にヤンゴンに開いた居酒屋風日本料理店「一番館」やホテル内の日本料理屋やマッサージがメンバーたちのご贔屓でした。

 アウンサン・マーケット、JAICAの保険衛生プログラムコーディネーターの碇夫妻との会食、スー・チー女史の邸宅接近、ミャンマーという土地からは想像しにくいライブ・バーMr. Guitar Manでの欧米ポップス宴会、などなど、もっと紹介したいのですが、この辺にしておきます。

●ビエンチャン

 ビエンチャンはインドシナの山形だべ。山形はわたしの出身地、ということでビエンチャンは世界で最も美しくおいしい土地でした。首都なのに交通信号が2個しかありません。山形はもっとありますよ。

 この街を歩いて、二十歳のころの世界旅行の気分を味わいました。そこに存在することそのものが喜びであるような旅。

 わたしはこれまで世界中のいろんな土地を旅してきましたが、最近では旅が目的ではなく、だれかに会うことだったり、なにか特定のものを見ることであったりと、単なる手段になってしまっています。また、どこの土地に行くのでも、わざわざ目的を作り出す。しかし、わたしが学生のころの旅はそうではなかった。安宿を探し安食堂でメシを食い重いパックパックをもってひたすら移動していく。移動そのものが目的だったのです。

 ビエンチャンはそうしたかつての旅を想い出させる街でした。対岸がタイのメコン河沿いに立ち並ぶ掘っ建て小屋の食堂で風に吹かれてビールを飲み、つまらない小物を売りつける少年たちを冷やかし、1杯60円たらずのビーフンを食べ、1時間3ドルのマッサージに狂喜し、ときおりホテルのプールで泳ぐ。そして、野菜と肉類や魚介類との絶妙のバランスのラオス料理と透明なラオラオの洗練された素朴さ。蒸した餅米ごはんのおいしさ。なんと幸福なんだろう。

●ホーチミン

 同じベトナムでもハノイとは雰囲気がかなり異なります。ハノイは高層ビルがほとんどなく、煉瓦造りの中低層ビルの間をものすごい数の自転車とバイクが流れていたのが印象的でした。空気もなんとなく「清貧」というおもむきでした。しかし、ホーチミンは立体的でよりコマーシャル。ハノイが仙台だとすればホーチミンは大阪です。人力車夫やタクシーや路上の物売りが押しつけがましく客引きをし、物売りにも取り引きのしたたかさが感じられます。全体に雑然としているわりには、道路にはゴミ一つ落ちていない。

 長い戦争を耐え抜いてきたベトナム人は、よく「したたか」という形容詞でいわれることが多いのですが、戦争証跡博物館へいったときは強烈にそのことを思いました。

 戦争証跡博物館は、ベトナム戦争で使われた米軍のジェット機、ヘリコプター、大砲、戦車、対空機関銃、ブルドーザーなどの武器や拷問器具、枯れ葉剤による奇形児、ピュリッツァー賞の沢田教一や石川文洋などが撮った報道写真が展示されています。いかに米軍がひどいことをしたか、それに対していかに勇敢に戦ったか、を印象づける博物館です。一枚の写真を見たときは、わたしは思わず涙ぐみそうになりました。その写真に映し出されていたのは、ボロ切れのような服を着て塹壕を掘るベトコンたちのか細い足と顔の表情。民衆の死者400万、米軍死者58,000人。あの戦争はいったいなんだったのか、を考えさせられます。

 そうした生々しい展示物の合間に、ひときわ明るく照明されたパネルが目につきました。そのパネルにはこう書かれていました。

--われわれは、以下の事実を自明のことと考えている。つまりすべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき権利を与えられている、その権利には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれている。その権利を保障するものとして、政府が国民のあいだに打ち立てられ、統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。そしていかなる政府といえどもその目的に反するときには、その政府を変更したり、廃したりして、新しい政府を打ちたてる国民としての権利をもつ。・・・アメリカ合衆国独立宣言--

 どうです?すごいでしょう。ベトナム人は本当に「したたか」だと痛感しましたね。ちなみにアメリカ合衆国が統一ベトナムを承認したのはいつかご存じでしたか? クリントン政権時代の1995年なのです。

サマーチャール・パトゥル第30号2003年12月31日より