鹿鳴館音楽族

「○○さんはすごいのよ。幼稚園の園長さんなんだけど、子供たちに絶対音感をつけさせる独特の教育をされているの。それで賞ももらったのよ」 
 友人の奥さんが薄茶色の三宅一生プリーツを着た中年女性をこう紹介した。彼女はピアニストである奥さんに習いにきていたのだ。わたしは思わず、 
「子供に絶対音感をつけさせるというのは不幸なことではないでしょうか。絶対音感をもったせいでいろんな音楽を聴くのができない知り合いもいます」と言ってしまった。自慢の生徒を紹介しようとしただけだったピアニストの奥さんはワダスのこの発言に怒り、それ以後、友人宅への出入りを禁止されてしまった。1年ほど前のことだ。けっこう親しいと思っていた友人夫婦だったので出入り禁止はショックだった。まあ、身から出た錆というか、言葉というのは時と場所をわきまえないと他人を傷つけることになるということだ。気をつけなきゃ。 
 ともあれ、そのとき驚いたのは、ある高さの音を聴いたとき瞬時にその音名がいえる能力をつけさせる、つまりラ=440サイクルを基準とするピアノの鍵盤の不動のものさしを幼児の段階で持たせることがその子の将来の音楽生活を豊かにするという絶対音感「信仰」が未だに信奉されていることだ。今や西洋音楽以外のいわゆる民族音楽、楽音とはいえない音やノイズのある音楽も日常的にあふれているというのに。また、その絶対音にしても年々じりじりと上がり、ラ=445なんていうのもあると聞く。ちなみに、ラ=440サイクルというのは、1939年にロンドンで開催された標準高度国際会議で決められたということだ。今から70年ほども前のことである。 
 日本における絶対音感信仰は、明治時代の西洋音楽を中心にすえた音楽教育の結果出現したものである。その経緯や信仰形態、その限界などについては、ベストセラーになった『絶対音感』(最相葉月著、小学館、1998)に詳しい。最相は著書のなかで音感教育で有名な江口寿子の主張を紹介している。つまり、絶対音感を持てば次のようなことができる。音名が瞬時にわかる、調性がはっきりしない曲やひんぱんに転調する曲も聴き取れる、耳から聴いただけの曲を、弾いたり楽譜に書くことができる、音として覚えるので暗譜が正確にでき長持ちする、音楽のルールやセンスを早く身につけられる、音楽に関すること全般が、たやすくできるようになる。また、木下式音感教育法で知られる木下達也は、『わたしの音感教育-絶対音感が子どもの個性をひらく』のなかで、人間の音感能力のグレードには、1.単音であれ和音であれ、瞬時にドレミファという音名で答えられる、2.瞬時音名と同高の声で再現できる、3.瞬時に五線譜上に音符で書き表すことができる、4.瞬時に楽器等によって同高の音を奏でることができる、5.手がかり(調性)さえあれば、その音が理解できる、6.何の音か全然見当がつかない、があるとし、1-4は音感がある人、5は相対音感がある人、6は音感がない人、と強引に分類している。木下はさらに、「音高の基準のない人はリズム感も悪く、音楽を楽しめないことが多いものです。人間の五感のうち幼児期にしか発達しない『耳』に、『音の高さを正確に識別できる能力』を持たせ、生理的欠陥のない状態にしておくことが大切なのです」とまで述べている。彼らのいう音楽とは、西洋音楽を基準としたものであることは明らかである。こうした絶対音感信奉者には、はっきりしたリズムが感じられず音程が明確でない日本の伝統音楽や、基準音高を楽器や声で適当に決めるインド音楽や、微妙に音程をずらして発生するうなりを美しいとするガムラン音楽や、1オクターブを17音に微分するイスラーム世界の音楽を聴いたり演奏する人間は生理的欠陥者ということになる。 
 そういう人たちは、「18世紀(バロック後期)から20世紀初頭までのたかだか200年間の音楽」(岡田暁生著『西洋音楽史』、中公新書、2005)であるいわゆる西洋クラシックのみが芸術音楽だとかたくなに信じているようだ。絶対音感教育に関わり『子供のためのハーモニー-聴音』を書いた音楽評論家の柴田南雄ですら「彼は二十一世紀の日本の作曲家になるのであり、十八、九世紀のヨーロッパの作曲家になるのではない。本書を利用される先生方が、古典音楽のハーモニー聴音の意義を絶対視したり、過大評価なさらないようお願いしたい」とまでいわせるほど、絶対音感信奉者の信念はいまだ固い。世界の多様な音楽を楽しんだり表現することが容易になった21世紀の今日からみれば、恐ろしく時代遅れで頑迷な信仰といえる。あらゆる文化を西洋式にすることを目的とした明治時代の鹿鳴館にちなみ、彼らを鹿鳴館音楽族と名づけたい。その鹿鳴館族は三宅一生プリーツが好きなような気がする。 
 絶対音感は和声を中心とする西洋音楽ではそれなりに威力を発する。しかし、たとえばインドではこのような絶対音感信仰はまったく考えられない。インド音楽は、異なった音を意識的に重ねてその調和の美しさを鑑賞するというハーモニーの考え方がなく、ほとんどが独奏である。したがって、様々な楽器や声の音高を絶対的な基準を設けて統一する必要がない。このような音楽のあり方はなにもインドだけの特徴ではなく、意識的なハーモニーを持たないという意味では日本の伝統音楽を含め非西洋音楽がほとんどそうである。 
 鹿鳴館音楽族にとっては、どんな音楽にもそれぞれ固有の価値があるという考え方にはどうも立てないらしい。世の中に鹿鳴館音楽族的傾向の人々が存在することは、それはそれで目くじら立てるほどのことではないかもしれない。しかし、そういう人々が真剣になって幼児教育に励んでいると思うと、ちょっと気が気でない。友人宅出入り禁止を宣告されたあと、ふとこんなことを考えたのでありました。

MIXI掲載原稿(2007)