増幅拡声装置のついた一弦琴

ヴェトナムの一弦琴、ダンバウ

 ヴェトナムにダンバウという一弦琴がある。楽器の本体は、縦横十数センチ、長さ約80センチほどの細長い木製の箱である。その箱の上に、ちょっと高めのブリッジを介してスティール弦が一本張られている。箱の左端には20~30センチほどの、外側にすこし湾曲した細い棒が突き出ている。これにはエレキギターのアームのように、弦の張力を微妙に加減する機能がある。演奏者は、耳かきのような小さな竹のピックで弦を弾く。音質は、ハワイアンギターを思わせる。このダンバウの独特な点は、弦を弾く同じ右手の小指の側面で軽く弦にさわって倍音を出し、左手のアームを微妙に調整してメロディーを演奏することである。倍音の出る弦の位置にすばやく小指の側面を触れさせ、微妙なアームの押し引き加減で正確な音程を出すのは並大抵ではない。実に演奏の難しい楽器である。わたしもハノイ音楽院でさわらせてもらったが、まともな音は出なかった。
 ダンバウはこのように、たった一本の弦を張ったきわめて簡単な構造であるが、その独特な奏法によって音域も表現力もその構造からは想像できないほど広い。実際、すぐれた演奏家の手にかかると、実に微妙で味わい深い表現を聞かせてくれるのである。まるで雲の上を滑空するように旋律が流れ、なめらかなビブラートが胸をふるわせる。ただ、弱点はある。旋律がハーモニックスだけによるので音の強弱がつけにくく、その音量が悲しいほど小さい。そのままであれば、まさに「蚊の泣くような」はかなさなのである。したがって、竹のシロフォンや笛など他の楽器との合奏では圧倒的に不利である。そこで、いつのころからか分からないが、音量不均衡の解消策としアンプ内蔵スピーカーが取り付けられた。ハノイ音楽院や水上人形劇場で聞いた楽器には、本体の下にトランペットスピーカーが取り付けられていたし、今年3月のエイジアン・ファンタジー・オーケストラのハノイ公演で共演した奏者も同じような「電気」ダンバウを使っていた。もっとも、電気ダンバウは音量を獲得はしたが、細いスティール弦のもつ繊細な音が、まるでエレキギターのようなものに変化してまったが。

インドの楽器も音は小さい

 ダンバウほどではないにしろ、インド古典音楽の楽器も音量としては小さい。たとえば、代表的なシタールも、見た目は大きいが音量は小さい。それに、シタールには直接ピックで弾かない10本以上の共鳴弦があり、それらは他の旋律弦が弾かれて初めて音が出る。この共鳴弦の音もかすかなものである。伴奏打楽器であるタブラーも、スティックではなく指で叩くという奏法であるため普通のドラムのような大きな音は出ない。わたしの演奏するバーンスリーも、西洋フルートなどと比較すると音量は小さい。それでもインドの古典音楽はもともと宮廷や富裕な個人の邸宅でごく少人数を聴衆に演奏されていたので、それほど大きな音量は必要としなかったのである。数少ない熱心な聴衆と演奏者にとっては十分な音量であり、逆に、またそうであるからこそあの精妙なラーガとターラの表現へと音楽が発達してきたともいえる。
 しかし現在、インドの古典音楽はかつてのように限られた人々のものではなくなった。大都会でのコンサートはときには数千人の規模で開催される。だからコンサートでは音響機材の使用は欠かせない。最近では、シタールにピックアップ・マイクやコンタクト・マイクをとりつける場合もあり、コンサート会場のスピーカーは割れんばかりの大音量を吐き出している例が多い。 

楽器音量の拡大

 いわゆる西洋楽器も、今では大きなコンサートホールでも増幅拡声装置なしで十分な音量が確保できるようになっているが、かつてはどれも今ほどの音量はなかった。中世ルネサンスからバロック時代にかけての楽器は、それらの発展形である現在の楽器とは比べものにならないほど小さな音しか出なかった。音量が大きくなってきたのは、近代工業化による楽器製法の変化と音楽の聴かれ方の変化の相互作用によるものだ。チェンバロからピアノへの変化のように、より大きく、より強く、と楽器の音の質量が拡大されてきたのである。また西洋楽器では、音量とともに音の高さも上がってきている。
 楽器の音量は、このように、社会的、歴史的条件に因っている。条件が変化すれば、音量も変化するが、インドやヴェトナムのいわゆる民族楽器は、西洋の場合のようには楽器それ自体を改変した音量拡大に向かった歴史をもってはこなかったようである。音楽を取り巻く環境の変化も、西洋に比べて比較的ゆっくりだったためか、限られた音量しかなくともそれほど問題はなかったのだろう。
 「素朴」で「自然」なダンバウにトランペットスピーカーがついた姿とその電気的な音に、わたしは当初、違和感を感じた。しかし考えてみると、ダンバウは電気がなければ生き延びることができなかったかもしれない。あのように音量の小さな楽器では、狭い室内でのごく少数の聴衆しか鑑賞できない。音楽が大衆化するにしたがい、他の楽器との合奏やより多くの聴衆を対象としたコンサートが必要になってきたとき、「なんだ、こうすりゃ大きな音が出るではないか」と、ヴェトナムの人たちはダンバウにトランペットスピーカーを取り付けたに違いない。それには外国人のわたしが「違和感を感じた」などと感想を述べる資格はない。楽器もさまざまな社会的条件に応じて変化せざるをえないのである。ハノイで見た電気ダンバウは、いわゆる民族音楽に「素朴さ」や「自然さ」をともすると願望してしまうわたしの思いこみをすこし修正してくれた。楽器つまり音楽をとりまく現実的な環境はどこにおいても変化しているし、そうした変化に対する対応の仕方もまたそれぞれなのである。

内向きの音楽と外向きの音楽

 たしか中村とうよう氏が、ある本でこんなようなことを述べていた。つまり、古典音楽などの、社会の支配層によって支えられてきた音楽は、内向きのベクトルが働く一方、ポップスなどの大衆音楽は最初から外に開かれた存在だ、と。ここでいう内向きとは、音楽が、アイデンティティーの維持という支配の正当化の一手段としても機能してきたということである。このように、音楽が内向きか外向きか、というとき、楽器の音量も当然、関係してくるだろう。内向きの音楽は限られた人たちが対象であり、大きな音は必要とされないし、逆に、大衆音楽はより多くの大衆に伝えるべく音量が大きくなる。そう考えると、小さな音量から大きな音量へと楽器が改変されるということは、求心的であった音楽がより外向きに開かれるということなのであろう。

「日本音楽学会関西支部通信」原稿