インドの偉大な音楽家たちはどんな人たちだったのか

 バッハ、ベートーベン、モーツァルトなど、西洋音楽の楽聖たちの評伝は数多く翻訳出版されている。われわれは、彼らがどのような音楽生活を送ったかはもとより、日常生活の詳細まである程度知ることができる。明治以来、日本の音楽教育が西洋偏重を旨としてなされてきたわけだから、こうした評伝が数多く出版されてきたのは当然である。
 非西洋世界にも彼らのような大楽聖たちに比肩しうる優れた音楽家たちが存在したことは当たり前のことだが、これまでほとんど紹介されることがなかった。まして、いわゆる民族音楽の一つのジャンルとしてしか紹介されてこなかったインドの音楽家に関するまともな評伝は皆無であった。その意味で今回の『楽聖たちの肖像』の翻訳出版は意義のあることである。
『楽聖たちの肖像』に紹介されているのは、12世紀から19世紀にかけて活躍した11人のインド音楽の楽聖たちである。インドを代表する音楽学者がそれぞれの人物ごとに書き表したものを、V・ラーガヴァンが編集し一冊にまとめたものの翻訳である。
 本書は「インド音楽史を彩る11人」という副題をもつが、訳者が末尾の「解説にかえて」で認めているように、南インドの音楽家たちの評伝に偏っている。たしかにバランスを欠いている。ヒンドゥスターニー音楽演奏愛好家のわたしとしては、もう少し北の人たちにも登場してほしかった。これには編者が南インドの人であることが大いに関係しているのだろう。しかし、これまでインド音楽というとほとんど北のヒンドゥスターニー音楽に偏ってきた日本のインド音楽受容状況にとっては、これまで知られていなかった南インドの音楽家たちが扱われているので、バランスを取る意味でもよいことだと思う。本書を読んで初めて名前を知る音楽家もあり認識を新たにしたと同時に、紹介されている楽聖を意識しながらカルナータカ音楽を聴きたくなった。
 本書で紹介されている音楽家たちの大半は拙訳の『インド音楽序説』でも簡単に触れられている。だが、わたしが訳していてもどかしい思いをしたのは、南インドの楽聖たちの実際の音楽をほとんど知らないということであった。名前だけは知っているティアーガラージャ、シャーマ・シャーストリ、ムットゥスワーミー・ディークシタルの、いわゆる南インドの三楽聖にしても、カルナータカ音楽にほとんど縁のなかったわたしとしては、人物像と音楽の確としたイメージがわきにくいのである。ともあれ、インド人はどういう人たちを楽聖とみなしているかを知る上で興味深い人選だといえる。
 南も北も、インド音楽の王様は声楽である。そして声楽では、当然、歌われる歌詞が重要である。特に南インドの楽聖たちは、メロディー、リズム、様式の改革者であると同時に、歌詞を紡ぐ詩人であった。詩の題材になるのは、ヒンドゥーの神々にちなむものがほとんどである。本書を読んであらためて音楽家、作曲家であることがいかにヒンドゥーの世界観と結びついているかを思い知らされる。
 本書では、楽聖たちの生い立ちや音楽的、精神的、社会的生活をわかりやすい訳文で知ることができる。またインドの社会、地理、文化などに関する背景的知識を補うことのできる親切な脚注はありがたい。
 本書でわたしがいちばん評価したいのは、本文よりも二人の訳者による「インド音楽史-解説にかえて」の部分である。インドの歴史、社会、文化に対す要点を得た背景説明のなかに、インドの音楽の歴史的流れが過不足無く解説されていて力作である。この比較的長い解説は、評伝の付録というよりも一個の独立したインド音楽史の概説になっている。
 南北のインド古典音楽は、インド国内だけではなく世界中で聴取され学習されている。いわゆる民族音楽の一つとしてではなく、音楽芸術表現の一つのあり方として認知されてきている。ただ日本では、インドの音楽が西洋経由でかつサブカルチャー的に受容されてきた関係で、わたし自身を含め、生半可な知識による解説や演奏がいまだにまかり通っている。しかも、先述したように聴取や演奏において北のヒンドゥスターニー音楽に偏っている。こうした状況を少しでも変える意味では、本書のような音楽家たちの評伝の前に、音楽そのもののきちんとした解説書が出版されていいはずである。そういうものが無いが故に、訳者は「インド音楽史-解説にかえて」をわざわざつけ加えざるを得なかったのだと思う。願わくば、この「インド音楽史-解説にかえて」が、このような評伝の付録としてではなく、より包括的な一つのまとまった書物として世に出ることを望みたい。

『楽聖たちの肖像~インド音楽史を彩る11人』
(V・ラーガヴァン編集、井上貴子・田中多佳子訳)書評
「インド通信」掲載原稿/2001年4月