インド音楽の魅力

 インド音楽は、日本ではまだまだ「珍しい」音楽と思われているが、欧米では数多くの演奏会が開かれており、今や、いわゆる民族音楽の一つとしてではなく、普遍的な音楽ジャンルの一つと認知されたといえる。その理由は、インド音楽がある地域の特殊な音楽という以上の精緻な理論体系と、その体系に内包される音楽観と精神性にあると思う。インド人音楽家の目ざす「ナーダ・ブラフマー(音魂)の現出」は、音楽を愛好するすべての人に共通する価値観でもあると思うからである。
 わたしの最初のインド音楽体験は、六〇年代後半のビートルズの「ノルウェーの森」である。西洋音楽やその亜流の音楽に慣れ親しんでいた当時、その曲に部分的に使われたシタールの不思議な響きは、実に新鮮に聞こえた。また、その後、大学を休学して一年間のユーラシア放浪の旅の途中インドに立ち寄り、本場でインド音楽に接して、その奥深さにますます強く惹かれるようになった。
 しかし、大学卒業後は人並みに就職したのでなんとなく遠ざかっていた。ところが就職した会社が幸か不幸か倒産してしまい、さてこれからどうしようかというとき、ふとインドへ行ってみようと思い立った。あの不思議な音楽にもう一度触れたいと思ったのである。八一年にバナーラス・ヒンドゥー大学音楽学部に留学し、八四年までの約三年間、ヒンドゥー教の聖地バナーラスに滞在した。
 大学の授業は主に音楽理論であったが、理論よりも実践の方に興味があったので、授業のかたわら、声楽とバーンスリー(竹の横笛)を先生について習うことにした。
「一オクターブの中に音は無限にある。それぞれの音にはそれぞれの神がいる。演奏家はその神を目の前に引出すだけでいい。あとの演奏は、神が全部やってくれる」先生はいつもそういっていた。日がな楽器の練習ばかりしていた。竹筒に指穴が六つあるだけのバーンスリーは、正確な音程を出すのにかなり苦労するが、先生はそんなことはお構いなしに大量の課題を与える。練習のパターンは無限に近い。インド音楽と抜き差しならない関係が生じたのは、その時以来である。修得すればするほど練習すべきことが増える。
 さて、北インドの古典音楽は、ジャズのように即興演奏を基本とする。楽譜というものをもたない。ふつう古典音楽という言葉から思い浮べる、作曲家によって入念に構築された作品を演奏家が忠実に再現するという音楽ではない。しかし即興ではあるが、演奏家がその場の思いつきで勝手に演奏するわけでもない。即興演奏のための枠組みは、実に詳細にわたって体系化されている。インド古典音楽は、演奏の枠組みや体系が「古典」なのである。同じ演奏家によってもまったく同じ演奏は二度とないわけで、常に新しいといえる。その意味では、きわめてユニークな「古典」なのである。
 インドでは、古典音楽のことをシャーストリヤ・サンギートといっている。シャーストリヤは、学問、科学、知識などを意味し、サンギートは音楽を意味する。この言葉が示すように、演奏家には複雑な理論体系に対する深い理解が必要とされ、また同時に、表現上の独自性が要求される。実際、一定レベルの演奏家になるのは並大抵のことではない。演奏家は、複雑な枠組みを踏み外すことなく、瞬間的に頭に浮かんだ旋律を自由自在に、しかも美しく再現しなければならない。演奏家たらんとする人は、一種の修行ともいえるストイックな訓練を長期間にわたって行わなければならないのである。一日八時間の練習を二〇年間続けて初めて一人前の演奏家になれる、という人もいるくらいだ。演奏家は、そのような猛烈な訓練の中で、音や旋律のもつ不思議な力を深く観察することになる。
 インド音楽の魅力を一言でいえば、そうした観察の蓄積から生れる深い精神性である。もちろん、高度の技術や、主奏者と打楽器奏者とのリズムの応酬やかけひきには、スリリングな興奮もある。しかし、ゆっくりとしたパートから次第にテンポを加速し、最高速の頂点で終了するインド古典音楽の演奏全体を支配するのは、シャンティと呼ばれる平安な感情である。そこには、インド人演奏家がいう「日常の喜怒哀楽を超越した純粋な美と、ナーダ・ブラフマー(音魂)がある」。インド音楽が世界中の多くの聴衆を魅了するのは、民族を越えて共有しうるこうした音楽観にあると思う。

「神戸新聞」掲載原稿