インド人の輪廻思想とリズム

 インド音楽のリズムを語るとき、インドの古代からの世界観と切り離しては考えられない。
 音楽でいうリズムとは、時間の細片を一定の法則によって配列することである。イ ンド音楽のリズムの基本であるターラは、この一定に配列された時間の細片の、あるまとまりが繰り返されて成り立つ。
 ターラの種類は、きわめて多い。しかも、われわれの感覚からするととても考えられないような変則的なものも多い。たとえば5、7、9、10、11、13、14拍子などはご く一般的だし、4.5拍子、5.5拍子などというのもある。わたしは一度だけ、18.5拍子という変なターラを聞いたことがある。77拍で一周するターラもあったという。
 このように、インド音楽ではさまざまなターラが使われているが、共通するのは周期性という考え方である。そして、周期の第1拍目(=サム)が常にもっとも重要である。どんな複雑なリズム変奏であれ、あるいはどんな複雑なメロディー変奏であれ、 常にターラの起点であるサムにおいてフレーズは解決される。
 さて、こうした周期性は、古代インド人の考えた人間の一生のそれと似ている。その考え方の一つ(五火説)によれば、人が死ぬと、以下のプロセスを経て再び人になる。生命の水は、火葬の煙となって天界に上昇し月に至る。月に満たされた水は、雨 となって地上に降り、草木に養分として吸収され食物となる。食物は食べられて精子となり、母胎に入って胎児となる。胎児の寿命がつきると再び火葬の煙となる。
 ヒンドゥー教の聖地バナーラスのガンジス河での沐浴や荼毘の風景は、インドを代表する風景としてよく写真でも紹介される。人々は死が近づくと、ガンジス河岸で荼 毘にふしてもらうために、全国からバナーラスにやってくる。ガンジス河岸で荼毘にふされることは、上記のような輪廻からの解放を意味するからである。ヒンドゥー教によれば、人間の最終的な目標は、個(我=アートマン)がこうした周期性から解脱 し、永遠至高の存在である大宇宙(梵=ブラーフマン)と一体化することである(=梵我 一如)。
 さまざまな変化のパターンを内包しつつサムで解放されるリズムやメロディー。そ れは、ちょうど、人間がさまざまな紆余曲折を経て一生を終え、次の生の出発点へ向 かうという周期の相似形ともいえる。したがって、インド人の世界観によれば、今生 きていることは、人生というターラの、複雑なリズムの過程にあるということだといえる。

2001「アース・セレブレーション」ワークショップ用原稿