聲明の芸術音楽としての重要性

 聲明は仏教儀式の一部として寺院内で伝えられてきたため、一般にはあまり知られていない。が、一方で、音楽としてとらえようとする新たな視点から、寺院空間の外で演奏される機会も生まれている。現代における芸術音楽としての聲明の重要性を考えてみたい。

●宗教儀式である聲明 
 聲明は、儀式に取り入れ実践している各宗派にとっては、儀式の荘厳さや宗教的空間を彩る手段である。その意味で、聲明は機能としての音楽といえる。同時に、聲明はそれを聴く者に個人の生を越えた普遍性と美と非日常性を感じさせる芸術的な音楽でもある。生きた伝統として1000年以上に渡り今日まで伝承され続けてきた理由は、この機能性と芸術性を併せ持つことにあるだろう。近年は仏教儀式そのものの減少や簡略化によって、一般の僧侶ですら聴く機会が減少し、それにともない日常的な練習を含め実践する僧侶の数も減少しているとはいえ、聲明に対する僧侶たちのこれまでの認識に大きな変化がないかぎり、今後も伝承されていくに違いないし、そう願いたい。

●芸術音楽としての聲明  
 聲明の音楽としての芸術性については、日本仏教各宗派の実践者たちよりもむしろ、作曲家や音楽愛好者に広く認識されつつあるといえる。 
 寺院の中の儀式において歌われる音楽が、一般の人にも聞くことができるようになったのは、1966年に国立劇場公演として登場してからのことである。聲明という言葉がある程度一般化したのも、国立劇場公演のおかげだといってよい。国立劇場では以来、コンスタントに各派の聲明を中心とした仏教音楽が紹介されてきた。これらの公演では、国立の劇場という性格から、仏教音楽の宗教的な側面よりも芸術的なそれに光があてられている。 
 この一連の公演ではまた、石井真木、近藤譲、藤枝守、西村朗、高橋悠治といったいわゆる現代音楽の作曲家たちにも聲明を一つの音楽語法とした作品が委嘱され、発表されている。それぞれの作曲家によって取り組み方に違いはあるが、いずれも日本古来の伝統である聲明の音楽語法を現代的に取り込み、新しい表現の可能性を提示している。たとえば石井真木は、「聲明の伝統音楽的な側面と現代音楽の統合(integration)が意図されているが、これはまた、蛙の詩による『宗教と芸術』の複合的な統合であろう」と述べ、草野心平の現代詩『蛙の聲明』の朗読や吟詠を中心とした作品を発表している。作曲家たちは、それぞれ独自のアプローチをしているが、聲明を新しい音楽表現の一つの語法として取り上げようとする態度は共通している。こうした劇場公演を通して、仏教には豊かな音楽が存在していること、そして聲明が現代の音楽表現の一つの語法として可能性をもっていることが広く知られるようになった。

●世界に飛び出した聲明 
 また、聲明は日本だけではなく欧米においても注目され、Shomyoとして認知され始めている。アメリカ人の作曲家、リチャード・タイテルバウムは聲明のための作品を書き、それが東西ベルリンの壁に隣接したカトリック教会で1983年に演奏された。いっぽう、聲明に対するアプローチは作曲家たちだけではない。僧侶以外に、聲明を音楽として専門的に学習し、独自の公演活動を行うものも出てきている。 
 聲明グループ「七聲会」(浄土宗総本山知恩院式衆を中心とした僧侶によって構成)も、こうした流れの一つとしてとらえることができる。「七聲会」は、インド音楽や即興音楽との和奏などを含めさまざまな公演活動を行ってきた。2000年、2003年、2004年にはイギリスやフランス各地で公演を行い、好評を得ている。また、2008年にはブライトン音楽祭を含むイギリス公演や、2009年のオーストリア、オランダ公演なども予定に入っている。天台宗や真言宗など各宗派も国内外で実験的な試みを含む聲明公演を精力的に行っている。

●聲明の力 
 寺院から舞台へと演奏の場が広がったのは、さまざまな理由が考えられる。海外では、能、歌舞伎などと同じように日本音楽文化を代表するものとして受け止められてきたということはあるだろう。しかしなんといっても、他に類例のない聲明独特の濃密な美しい音楽空間と、舞台上の僧侶たちの存在が醸し出す精神性の魅力なのではないか。音楽としてみれば、男声(まれに女声)による単声合唱であり、一般の音楽のような興奮や劇的な要素は少ない。しかし、鍛えられた僧侶によって歌われると、いっけん変化に乏しい音が逆に何重にもたちのぼる倍音を発生させ、それが濃密な空間を創りだす。このような音楽体験はCDなどでは決して味わえないものだ。伝統的なものでありながらそれが音楽として広く認知されてこなかったために新鮮なものとして聴衆にアピールできたことも考えられる。また、ますます進む音楽の商品化のなかで、消費を目的としない聲明の有り様も新鮮でありかつ貴重なものとして受け止められたということもあるだろう。ほとんどすべての日本の伝統音楽の源でありながら、いまだにそれが生き生きと響いていることの驚きもあるかもしれない。

●商業音楽へのアンチテーゼとして 
 一般の人々が聲明に触れたのはたかだか40年ほど前のことである。古くさく抹香臭い仏教僧による音楽という認識だけであれば、今日のように国内外の舞台公演がこれほど盛んに行われることはなかったはずだ。冒頭でも触れたように、聲明は仏教儀式の荘厳さや宗教的空間を彩る一つの手段ではあるが、それが他に類のないパフォーミング・アーツとして認知されてきたからこそ、内外の音楽家や音楽愛好者を惹き付けてきたのである。わたしは、賞味期限の短い消費音楽で溢れかえる今の社会でこそ、おそらく世界最長の賞味期限を誇るこの素晴らしい芸術に触れる機会がもっと増えることを願っている。

法然上人800年大遠忌記念イベント「響流十方」に向けたエッセイ
MIXI掲載原稿(2008)