ラーガ・マルコウンス神秘逸話

 マルコウンスというのは、深夜のラーガとして有名である。北インド古典音楽では比較的よく演奏されるが、このラーガには独特の逸話がつきまとう。つまり、このラーガを深夜一人で練習すると幽霊のようなものが出るという話だ。
 これまで筆者はさまざまな音楽家に、いったいどんな現象を経験したのか聞いたことがあるので、その一つを紹介したい。
 タブラのファザル・クレシと来日したサーランギ奏者、スルタン・カーンから聞いた話は、ちょっと怖いものだった。
 スルタン・カーンの故郷は、ラージャスターンのジョドプールに近い村であるが、この話は、彼がその村で少年時代を送ったときに起きたという。
 暑く乾燥した季節には、彼はよく建物の屋上にベッドを置き文字どおり星の下で寝たそうである。そんなある日の深夜、ふとマルコウンスを練習しようと思い立つ。声楽家であった父親は隣のベッドでぐっすりと眠っていた。
 サーランギの調弦をした彼は、マルコウンスの練習を始める。
「練習を始めてから何時間たったか分らなかったが、ふと西の地平線をみると、小さな雲のようなものがポッと浮んでいるのが見えた。乾季の雲なんて珍しいなあと、練習の手を休めずに眺めていると、小さかったその雲が次第に大きくなる。で、その雲のようなかたまりが少しづつ大きくなり、自分の方に向かってくる。恐ろしいとはちっとも思わなかったが、何か、こう身体がこわばる感じがあった。そのときは練習に没頭していたので、意思と関係なく勝手に弓が動く感じで、音は出続けていた。
 その雲が丁度自分の真上にやってきた。これぐらいだったかなあ(と両腕を広げる)。それで、不思議なこともあるものだと思いながらその雲をじっと見ると、なんと、何千、何万という人の手が雲から突き出てひらひらひらひらしてる。こう、こんなふうに、ひらひらひらひらだよ。幾つも幾つも手が湧いて出てきて、このままでは身体がその手でつかまえられる気がして、あわてて親父に声かけた。親父は目を覚まし、びっくりしてこういうんだ。
『すぐ練習をやめるんだ』
 いわれて初めて自分の弓がずっと動いていたのが分り、練習を中断した。音が止ったとたん、今まであった何千何万という手も雲も元の地平線の方にすうーっと飛び去って消えてしまった。
 今でもあのとき何が起きたのかはっきりしないが、親父に後で聞くと、マルコウスを真夜中に練習すると不思議なことが起きるのだ、と教えられた。
 え。その後も経験したかって。いや。あの時だけだったな。マルコウンスを深夜練習すると不思議な体験をすることは、親父からだけではなく、他の演奏家からも後で聞いたから、ウソじゃなくて本当だったんだよ」
 スルタン・カーン氏は、身振り手振りを加えながら真剣な表情でこの話をしてくれた。いつもにこにこしている彼であったから、信じていい話かも知れない。マルコウンス不思議体験の話は、他にもあと二つ、シタールのニシャット・カーン氏とシヴクマール・シャルマ氏にも聞いたが、紙面が尽きたので別の機会に譲りたい。

  マルコウンス= C E♭ F A♭ B♭ C

「アナントレカ通信」原稿