現代における音楽表現行為の意味

すばらしい音楽と人間の不幸

 世界の民族音楽を聞き歩き、音楽の根源にあるものを思索した故小泉文夫は、二つのエスキモー部族の音楽を観察し興味深い報告をしている。比較的内陸地帯に住み、カリブーという鹿を食べるエスキモーは、歌はもっているが、一緒に声を合わせて歌うことも、リズムを合わせることもできない。一方、クジラを食べるエスキモーはリズム感もよく、声を合わせて歌う場合も、音程もリズムもぴったりと合わせて歌う、という。小泉は、この観察から、つぎのように述べている。
「たぶん、カリブーは一人で捕らえることができるけれども、クジラは多くの人々が力を合わせなければつかまえられないからだろう。・・・いざクジラを捕ろうとするときに力を合わせることができるように、そして収穫を全員で分けるという原始共産制的な意識を持ち続けるために、みんなで声を合わせてうたう歌が生まれたのだろう」(『小泉文夫 民族音楽の世界』日本放送出版協会、1985)。
 また小泉は、こうした観察から一つの社会観を導き出している。つまり、食料確保のための共同作業の必要のない人たちは一緒に歌うことができない。逆にいえば、われわれが洗練された音楽を聞いたり一緒に歌うことができるのは、われわれの社会がそれだけ共同化されているからだ。共同体が複雑になればなるほど、守るべきルールも複雑になる。われわれの生活は、そのルールを学習し、うまく社会のなかで生きる術を見つけなければならない。エスキモーの社会には、階級制度の元になる不動産のような財産もないので身分の上下もない。だからこそ音楽の構造も単純だ。だから「すばらしい音楽を持つということと人間の不幸とは、何か直接の関係があるような感じがしています」(『音楽の根源にあるもの』平凡社、1994)と述べている。

かつての音楽家をとりまく社会状況 

 さて、われわれは小泉のいう「不幸」な社会に生きているということになるだろう。現代のわれわれの社会は、カリブー・エスキモーのような、労働が生存と直結した単純でかつ自由な生活とはかけ離れている。富の獲得競争のなかで社会と個の関係がはっきりと実感できない「不幸」な社会。あらゆる活動が貨幣価値に換算され、労働と生活が間接的にしか実感されない社会。
 われわれの創り出す音楽も、需要と供給のバランスによって決定された貨幣価値によって売買される。たとえ作品がどれほど崇高で芸術性の高いものであっても、需要を満たす商品としての価値がなければたちまち見捨てられる。もちろん、芸術性ということも最終的には社会が評価を下すのだが。このような社会では、趣味として音楽行為を楽しむ人は別として、何らかの形で音楽行為を続けようとするためには、隠遁者になるのでなければ、職業音楽家として、あるいは職業となることを視野において活動せざるをえない。
 芸術音楽を職業としていたかつての音楽家たちは、ある意味で「無邪気な芸術庇護者(エルンスト・フィッシャーErnst Fischer)」であったぜいたくな封建領主や資産家たちによって支えられていた。いわゆる古典音楽は、そうした時代の産物である。音楽家たちは少なくとも顔の見えるスポンサーを相手に、時間とエネルギーをそれだけに集中し非常に高度で洗練された音楽を作ったり演奏していた。もっともそれは、階級制度と猛烈な搾取による富のおこぼれに依拠していたわけだが。インドの古典音楽も、西洋古典音楽や日本の古典芸能もほとんどそうである。こうした音楽は、搾取される人々にとっては無縁だったが、一方では歴史に淘汰されることのない普遍的な文化として現代まで生き延びてきた。そして、時代も社会も異なる現代のわれわれもそれらを享受している。

音楽家をとりまく社会状況-今 

 しかし現代の職業音楽家をとりまく時代と状況は、古典的な芸術音楽を産み出した頃とは著しく変わった。音楽家は、音楽をマーケティングの手段の一つとして利用する産業資本や、消費者である広範な「一般大衆」という、顔の見えない相手に自分の表現を供給することでしか生活を支えることはできない。最近では、音楽の消費商品化はますます進み、作曲家や演奏家は音楽産業という一つの産業に否応なく巻きこまれざるをえなくなっている。現代の音楽産業は、気まぐれで飽きっぽい広範な消費者を扇動し、また、彼らの需要に応えるために、もっと新しく、もっとヒットする、もっとゼニになる音楽を、と音楽家たちに要求する。たっぷりゼニのとれるスターを目指せ、と追い立てる。こうした状況の中では、音楽家たちが、自身の音楽をより芸術的なレベルまで洗練させることや、じっくりと音の体験を形にすることも、音楽家予備軍を長い時間をかけて訓練することもかなり難しくなってきている。

インドの伝統芸術音楽の今日の問題

 このような事情は、「悠久の歴史」をもつとされるヒンドゥスターニー音楽の世界でも例外ではない。ヒンドゥスターニー音楽という、世界でも類例のない精緻な体系をもつ音楽は、ほんの一握りの支配者階級が育てた芸術である。この芸術の神髄を把握し成熟した音楽家となるためには、あきれるほどの長期間にわたる集中した訓練が必要なのだが、今日のインドの状況は、この伝統的な訓練法を許容しえないスピードで変化しつつある。最近の演奏会では、かつての深い精神性を感じさせる表現よりも、即座の喝采をえるための曲芸的技巧や奇をてらった表現により重点をおいた演奏が多くなった。また、すでに名をなした数少ない人気音楽家の寡占状態はここ十数年続いている。人気のある音楽家たち、もちろんみなすぐれた音楽家たちだが、の寡占が続くのは、彼らのすぐれた音楽性からというよりも、むしろ音楽産業にとって興行収入やメディアによる収入が計算できるということからもきている。収支計算の予測のつかない、「無名」だがしかし次世代を担うべき若い音楽家たちが、職業音楽家として自立する機会をえることは、今日ではきわめて難しくなってきている。そして、彼らは、先輩の人気音楽家を見習い、ますます技巧を重視した演奏を目指すようになっている。現在のインド古典音楽のこうした状況に対して、危機感を抱いているインド人演奏家たちも多い。95年11月にムンバイー(旧ボンベイ)で開かれた「伝統と変化」というタイトルの国際セミナー(サンギート・リサーチ・アカデミーSangeet Research Academy主催)では、人気音楽家たちも参加してこの問題について活発な議論が行われた。

商品としての音楽

 では、こうした「不幸」な現代社会に生きる音楽家たちにとっての活動の意味とは何だろうか。音楽家は当然食べていかなければならないので、商品である演奏や作品を社会に提供し続けることは避けられない。音楽は、現代の共同社会の仕組みのなかでは、社会的機能の一つでもあるからだ。演奏や作品は、純粋なエンタテインメントとしての機能以外に、さまざまな商品の価値を補強するものとして機能している。われわれのまわりには、この種の消費される音楽があふれかえっている。ニュース番組、テレビドラマ、最近では電車のプラットホーム、街頭や商店、飲食店、ホテルのラウンジ、空港、映画、ゲーム、ジェット機内、肉牛飼育牧場、瞑想道場などなど。音楽家の作品を利用する側は、それぞれの目的に応じて多種多様な選択をする。西洋古典音楽の作品であれ、ゲームやニュースのBGMのような数秒の「作品」であれ、流行歌であれ、ポップスであれ、ジャズであれ、現代音楽であれ、邦楽であれ、ジャンルは問わない。いずれにせよ、それが芸術作品であろうが、たちまち忘れられていく作品であろうが、現代社会においては音楽はマーケティングの手段の一つとして利用され、音楽家はそこから収入をえて食べるのである。もっとも、バッハやモーツァルトは、二百数十年後の三宮センター街の雑踏の中で流される自分の「芸術」作品によって収入をえることはできないが。

現代における音楽表現行為の意味

 しかし、当たり前のことだが、音楽はこのような社会的機能の一つであると同時に、音楽家個人の表現行為である。現代社会のように、あらゆる活動が貨幣価値に換算され、つまり間接化され、社会と個の関係がはっきりと実感できない社会であればあるほど、なんとかして生存の実感をつかみたいという衝動が生まれる。音楽家にとってばかりではなく、個人のさまざまな表現行為はそうした衝動の一つといえる。とくに音楽などの芸術表現行為は、個々人それぞれの多様な聴覚体験を記憶し、個や種としての記憶を元に形を与え表現する行為である。体験と記憶の質と量は、人それぞれ異なっているわけだから、表現の内容も方法も人間の数だけある。生存の実感に迫る芸術作品は、こうした表現行為の葛藤の中から生まれる。
 しかし、われわれの社会は、こうした個人の多様な表現行為にたいして、貨幣価値や社会的地位と直接かかわらないという理由で往々にして不寛容になる。ちょうど、よい学校、よい会社、というドグマに適応しない者に不寛容なように。そこで、このような個人の多様な表現行為にたいして不寛容な社会にとっては、芸術表現行為は常に批判的な性質をもたざるをえない。
 小泉のいう、ある意味で人間の「不幸」を内在する現代社会にとって、個の存在の実感を希求する芸術表現行為は、なくてはならない社会的機能としてだけでなく、多様な想像力の選択肢と社会の柔軟さを体現することで、社会に寄与するという積極的な意味があるのだと思う。

この原稿は、にジーベック発行誌「サウンド・アート」(98年1月)掲載