津軽三味線のこと

 津軽三味線というのはかなり特徴のある音楽だ。唄いものや語り物の伴奏が主である日本の伝統のなかにあっては異質と思えるほど器楽的な使われ方をする。また、打楽器のように激しく撥(ばち)を打ち下ろす演奏技法は、いわゆる邦楽三味線の微妙な洗練さとは対称的で、攻撃的とすらいえる。普通の三味線は水平に構えるが、津軽三味線はまるで琵琶のように斜めに立てて演奏される。
 古典芸能の伝統にはある種の権威的安定感があるが、津軽三味線にはそれがまったくない。権力、権威、安定をはねかえすパワーと自由、エネルギ-の奔流、そして苛烈さ。これが津軽三味線の不思議な魅力である。そして、こうした魅力が、津軽三味線が日本の誇るべきワールド・ミュージックとして大きく開花していくことを予感させる。というのも、昨年の「エイジャン・ファンタジー・オ-ケストラ」アジア・ツアーでアジアの聴衆からもっとも注目を浴びたのが木下伸市の津軽三味線であったからである。
 このようなスタイルがいつどのように形成され今日に至ったのか。優秀な演奏家たちが活躍し、全国に教室ができるほど愛好者が増えてきたこの芸能だが、その由来については意外に知られていないのではないか。書店や図書館で探しても、津軽三味線のことを書いた本がほとんどない。わたしのもっている「新音楽辞典」(音楽之友社)には、いわゆる邦楽三味線のことはあっても、津軽のつの字もない。芸能のスタイルとして新しいということもあるだろうが、どうも、まっとうな芸能と認知されてこなかったばかりでなく、この芸能が本州の最果て北津軽の盲人芸能者である坊様(ぼさま)という特殊な人によって始められたことに理由があるのかもしれない。
 坊様というのは仏教の僧侶ではなく、芸能や鍼灸按摩師として生活せざるをえなかった男性の盲人で、津軽地方でこう呼ばれていたのである。江戸時代には、男性盲人の職業救済組織として当道座という治外法権的組織があった。総検校、検校、勾当、座頭などというのはその階級を表す官位名である。箏の山田検校、生田検校、などはこの当道座のトップクラスの人たちである。津軽三味線の基礎を作ったのは、その当道座にも入れなかった一人の坊様であった。 「津軽三味線の誕生・民俗芸能の生成と隆盛」(大篠和雄著、新曜社ノマド叢書、1995)によれば、現在の津軽三味線のスタイルは、北津軽に生まれた秋元仁太郎(1857~1928)という一人の坊様によって始められたという。仁太郎は下層身分であったため当道座にも加入できず、また11歳のとき唯一の肉親である父親と死別し天涯孤独となるという、これ以上ないハングリーな条件下で芸能者としてスタートした。このハングリーさと彼の生来の音楽的才能が、当時の芸能や社会的な伝統の呪縛から自由で独創的な音楽スタイルを生み出したのである。つまりこの芸能はスタートから権力、権威、安定をはねかえすパワーと自由、エネルギーの奔流、そして苛酷さをもっていたのである。その発生は、ちょうど虐げられた黒人奴隷の叫びから発生したジャズを思い起させる。
 仁太郎が津軽三味線の基礎を築いたのは明治になってからだが、それはまだまだ津軽地方一帯でブ-ムになっていたにすぎない。それが一躍知られるようになったのは、昭和34年(1959)の「三橋美智也民謡生活20周年記念リサイタル」で白川軍八郎という希代の弾き手が東京の聴衆を驚かせたことがきっかけだという。その後木田林松栄、竹山ブ-ムを引き起こした高橋竹山らによってこの芸能は全国に知られることになった。高橋竹山は、いまだに健在でがんばっている。しかし今では、今回出演する木下伸市のように、彼よりも2世代、3世代あとの若い優秀な弾き手がどんどん育っていることを考えると、津軽の寒村の一人の坊様によって産声をあげたこの芸能が今後さまざまな形で花開いていくことと思う。

庭火祭/国際民族音楽祭IN八雲
プログラム原稿/1996年9月