日本人とインド人のリズム感覚

 わたしのアメリカ人の友人で、サックス奏者のネッド・ローゼンバーグがこんなことをいったことがある。彼は、日本で尺八も習った人である。
「日本の音楽文化は非常にすぐれたものがあるけれど、ただ一つ理解できないのは、3拍子がなぜないのかということだ」

もみ手2拍子の日本人

 たしかに、日本の伝統的なリズムに、ワルツのような3拍子はない。民謡やわらべうたなど、日本の伝統的大衆音楽では、2拍子が基本になっている。隣の韓国ではアリランに見られるように3拍子だらけだというのに、である。演歌の手拍子を思い浮かべてみればよく分かる。手拍子は強弱のない、いち、に、いち、に、と続くだけのリズムである。ときには、いち、のときに手をたたき、に、のときにもみ手をする人もいる。どうもわれわれは、この手拍子の感覚がからだにしみついているらしい。

伸縮するリズム、間(ま)

 一方、古典である能の囃子では、単純な2拍子に近いものもあるが、リズムのありかたとしては複雑である。能の囃子は、4拍を1単位として、それを「くさり」といっている。ところで、ひとくさりは4拍といっても、これが均等な時間分割ではないので、一般的な4拍子とはとても思えない。能の1拍は伸縮するのである。拍の始まりは、おー、とか、はー、とかのかけ声である。1拍は、こうした奏者の発声で始まり、鼓が打たれた時点で終わる。どれくらい声を伸ばすかは伝統的な目安はあるが、奏者の感覚で決まる。ここで重要なのは、鼓が打たれるまでの間合い、そして鼓が打たれてから次の拍に移行するまでの余韻である。他のパーカッションのように時間の刻み方の変化や正確さではない。無音の時間の長短に、むしろ洗練さが要求される。したがって、パターンの反復という一般的なリズムの感覚ではとらえきれない。

終わりよければすべてよし

 このような日本の独特のリズムを観察し、研究した民族音楽学者の故小泉文夫氏は、日本人のリズムの感覚は、ものごと(の始まりと終わり)に対する一般的な感覚からきているのではないかと考え、「日本人は始めよりも終わりが最も重要で、その重点の置き方が諸民族のあいだで並はずれているように思う」と述べている。終わりよければすべてよいのである。

インドの輪廻するリズム

 さてインドのリズムの感覚もまた、かなり特徴的である。インド音楽のリズムの基本は、ターラというリズムサイクルである。ターラを理解するには、1週間という周期をイメージすると分かりやすい。時間は一方向へ進んでいくが、月曜日は1週間というサイクルを作り、定期的に何回も反復してやってくる。ターラも同じように、一定のリズムパターンのひとかたまりが周期的に反復される。そのひとかたまりの先頭の拍がサムと呼ばれ、さまざまなリズムの変形やメロディーの変形は必ずサムで解決するように曲が組み立てられる。

時間単位の計算式

 また、拍と拍の間は、細かい時間単位の集合だと規定する。その理論によれば、拍と拍の間は実に16384の最小時間単位(クシャナ=瞬間/仏教でいう'刹那'がこれにあたる)によって成り立っている。計算式までちゃんとあって、8クシャナ=1ラヴァ、8ラヴァ=1カーシュター、8カーシュター=1ニミシャ、8ニミシャ=1カラー、2カラー=1チャトゥルバーガ、2チャトゥルバーガ=1アヌドゥルタ、という具合だ。この計算式にしたがえば、われわれの理解する1拍=1アヌドゥルタは、8×8×8×8×2×2=16384クシャナということになる。しかし、なぜそうなるかの根拠は示されない。どうやって計測するのだろうか。ともあれ、この辺が、ものごとを微細に分類することを好むインド人の時間感覚を表しているのかも知れない。

インド人の世界観とリズム

 インド音楽のこうしたリズムや時間分割の感覚は、ヒンドゥー教や仏教の輪廻の思想を思い起こさせる。輪廻の思想では、人間を含めたあらゆる生き物の死は、そこで全部おしまいになるのではなく、次の別の生の出発点でもある。インドのリズムに対する考え方もそれに非常に似ている。一定のリズム周期(ターラ)に乗って流れるメロディーは、途中いろいろな変化をしつつ、常に、次のリズム周期の起点であるサムで終わる。終わりイコール始まりだという考え方は、どうもこのインド人の世界観と関係しているように思える。

第5回庭火祭プログラム原稿


コンサートデータ

とき/1997年9月13日(土)06:00PM~
ところ/熊野大社(島根県八雲村)
出演者:/熊野大社八雲楽、御陣乗太鼓、クリヤッタム公演団、仙波清彦、田中顕
タイトル/第5回庭火祭