音のきもち

「1オクターブの中には音は無限にある。そして、それぞれの音にはそれぞれの神がいる。演奏家のやるべきことは、まず音楽の開始音であるシャドジャの神の座所をこしらえることだ。
 ゆるぎのない安定した座所ができれば、シャドジャの神はそこに現出する。そこで、次にシャドジャの隣のリシャバにアプローチする。しかし、一気にリシャバの座所を作ることはできないので、何度も何度もシャドジャからの距離をはかりながらその位置を探ることになる。そうしてリシャバの神の座所が安定する。このようにして、次はガーンダーラ、マディヤマという具合に音の神の座所を作っていき、オクターブ上のシャドジャに達した時点で、演奏家の役割は終る。あとは演奏家はなにもしなくていい。神が全部やってくれる」
 これは、わたしがインド音楽を習い始めたころの先生、ゴラクナート・ダースさんがよくいっていた言葉である。シャドジャ、リシャバ、ガーンダーラ、マディヤマという見慣れない言葉は、西洋音楽のド、レ、ミ、ファにあたるインド音名である。
 ダースさんは、81年から84年にかけてわたしの通っていたバナーラス・ヒンドゥー大学の電気技術者で、プロの音楽家ではない。もちろん演奏はするのだが、演奏会で彼の演奏を聴いたことはない。ダースさんがどの程度の腕前であったのかはよく知らない。「大した」ことはなかったのだと思う。しかし先生は、楽器の演奏技術よりも、音のもつ不思議さと力についてよく話してくれた。そうした哲学的な話が、一介の電気技師兼しがない街の音楽教師の口から出てくること自体わたしには驚きであったが、今から考えれば、ダースさんとの幸福な出会いが、音楽行為というものを考える大きなきっかけになった。
 インド音楽は、古代インドの賛歌『サーマ・ヴェーダ』に始るといわれるほど、古い起源をもっている。現在の様な形になったのは、16世紀から始るムガル朝の宮廷音楽として洗練されてからであるが、基本となるアイデアは古代から連棉として伝承され今日に至っている。そのアイデアの根本は、美的満足を伴って即興的にいかに変化に富んだ旋律を創造するかということと同時に、ナーダ・ブラフマーの神秘的な力の源泉にいかに触れるか、である。このナーダ・ブラフマーの探求が、インド音楽が一地域のいわゆる民族音楽という枠を越えて世界的に広がりをもち得る所以なのではないかと思う。
 ナーダという言葉は、サンスリット語で「音」という意味である。類語として「ナーディー」という言葉もある。これは「流れ」を意味する。したがって、古代インドでは「音=流れ」という認識があったと思われる。
「ブラフマー」は、シヴァ、ヴィシュヌと並ぶヒンドゥー教の三大神の一つである。シヴァ神とヴィシュヌ神は、それぞれ、世界の破壊と維持を司どるが、ブラフマー神は世界の創造を担当する。また、ブラフマーは、全宇宙の根本原理と理解されている。インドの思索者たちの永遠の命題である梵我一如は、大宇宙の根本原理(ブラフマン)が結局は個我(アートマン)と同一であることを認識することである。したがって「ナーダ・ブラフマー」とは、音や音楽が大宇宙の根本原理を内包しているという認識であり、また演奏家や聴衆は音楽体験を通して大宇宙の根本原理に触れるという認識だといえる。これは、『地球のきもち』創刊号の巻頭エッセイで津村氏が触れておられた「天人合一」や「即天去私」と共通した認識であろう。
 このたびわたしの訳で出版されることになった『インド音楽序説』は、音楽の理論的技術的な側面も紹介されているが、こうしたインド音楽の精神性についても記述されている格好の入門書である。音楽関係者以外にもぜひ触れていただきたいと思っている。

『地球のきもち』掲載原稿/1994