「ザヴィエルの道」での演奏について

 今回、「ザヴィエルの道」という催しで、「ザヴィエルが当時聞いたかもしれないインドの音楽」を演奏せよということになりました。
 わたしの専門であるヒンドゥスターニー音楽(北インド古典音楽)は、西洋音楽のように楽曲を楽譜に定着せずに口承による伝統です。したがって、フランシスコ・ザヴィエルがポルトガルからインドにやってきたころの曲は、当然、記録としては残っていませんので、いったいどういう演奏をしたらよいのかとまどうばかりです。しかし、せっかくお呼びいただいたからには、何か演奏しないわけにはいきません。そこで、わたしは、ムガル朝第3代アクバル皇帝(1542~1605)の偉大な宮廷音楽家であったターンセーンの作曲だといわれる曲を演奏しようと思います。その演奏にあたって、ターンセーンという人物の背景などについて以下にちょっと触れてみたいと思います。
 ザヴィエルがゴアにやってきたころのインドは、ムスリムやヒンドゥーの土候国の割拠状態にありました。ゴアは、それらムスリム土候国の一つ、ビージャープルからポルトガルが1510年に奪い取った都市です。
 後に全インドを統一することになるムガル朝は、中央アジアから侵入してきたバーブル(1483~1530)によって1526年に始まりますが、第2代皇帝フマーユーン(1508~1565)のときに、ムスリム系土候の連合軍に破れ、皇帝は一時的にペルシアに亡命を余儀なくされます。しかし、ムガル朝は1555年に再興され、第3代アクバル皇帝の治世で全インドが統一的に支配され、最盛期を迎えることになります。したがって、ザヴィエルがゴアにやってきた1542年というのは、インドの統一権力の、このいわば空白期間にあたるわけです。
 そのころも、もちろん諸王国の宮廷では音楽が演奏され、職業的な音楽家も存在していましたが、演奏スタイルも楽器も現在とはかなり違っていたと思われます。インドではすでに、『ナーティヤ・シャーストラ』(紀元前2~紀元6世紀ころに成立)や『サンギータ・ラトナーカラ』(シャールンガデーヴァ著、13世紀)といった音楽理論書が書かれるほど、古代から音楽は盛んでしたが、現在まで続く洗練された体系として成立してくるのが、実は15~16世紀、つまり、ザヴィエルがゴアにやってきたころです。
 期せずしてザヴィエルと生年が同じであるターンセーン(1506~1595)は、偉大な音楽家として現在でもよく知られた伝説的人物です。インドの音楽家たちは、現代にまでいたる北インド古典音楽のスタイルは、このターンセーンによってうち立てられたとよくいますが、それほどインドの古典音楽に与えた彼の影響は大きかったのです。
 インドの北中部のグワーリヤルの近くの村に、1506年(1492年、1493年、1520年、1532年、という説もある)に生まれたターンセーンは、非常に有名な音楽家でした。諸王は競って彼を召し抱えようとしたし、彼の演奏によってこんな奇跡が起きた、などと今でもさまざまな話が伝わっているほどです。ですから、ザヴィエルが鈴を振りつつ、南インドの漁夫たちにタミル語で布教活動をしているころも、山口で大内義隆に会っているころも、おそらくターンセーンはどこかの宮廷で演奏していたはずです。もしザヴィエルがインド音楽に興味をもっていたのであれば当然、彼の名前を耳にしていたかもしれません。
 わたしの演奏しようとするターンセーンの曲は、口承であるだけに当時とはかなり違っているかもしれません。しかし、ひょっとして同じ曲をザヴィエルも聞いたかもしれないと考えると、今回の演奏も、当時の雰囲気を多少とも伝えることができるのではないでしょうか。

「ザビエルの道」(98.11.23)プログラム未発表原稿