「バーンスリー、単純だけに難しい」

 バーンスリーはインドでは古くからポピュラーな楽器である。13世紀の音楽理論書『サンギータ・ラトナーカラ』にもさまざまな種類の笛について記されている。しかし、ヒンドゥスターニー音楽の主奏楽器として、近年になるまでほとんど使われてこなかった。どうも古典音楽にふさわしい楽器とはみなされていなかったようである。民謡などの大衆音楽で使われていたためか、口に直接触れる楽器ということで不浄とみなされ、楽器カーストとしては低い地位にあったのか、あるいは古典の精妙な表現は無理だと思われていたためか、古典音楽で認知されたのは、おそらく1930年代ころからだと思われる。
 インドの楽器は、どれも修得するには難しいが、一見単純に見えるバーンスリーも例外ではない。とくに厳密な音程と微妙な動きの表現が要求される古典音楽の場合、バーンスリーは機能の限られた単純な構造だけに、むしろ構造のしっかりした弦楽器などよりもずっと難しい楽器といえるかもしれない。ハリプラサード・チャウラースィヤー師(以下ハリジー)は、ボンベイの自宅でレッスン中、わたしにこんなことを言ったことがある。
「バーンスリーは、弦楽器のように調弦がなくていいねと言われるが、とんでもない。いったん調弦すればそのまま演奏に集中できる弦楽器なんかよりはずっと難しい。指穴のあいている位置もいい加減だし、吹き加減や指の押さえ加減によって音程も変わる。だから、どんなに速い旋律でも常に正確な音をきちんと出すには、かなり大変なんだ」。
 たしかにバーンスリーで、正確な音程を維持するのは難しい。指穴は6つしかないのに、半音を含むあらゆる音階に対応しなければならない。バーンスリーでは、半音は、リコーダーや西洋フルートのように換え指を使わず、指穴を半分ずらした加減で出す。したがって、半音の多いラーガだと、穴のふさぎ加減と吐息の調整を常に行いながら旋律を奏することになる。どの楽器も声楽を模す技術が要求されるため、インド音楽では、グリッサンドやポルタメントが多用される。正確な音程でいかになめらかに声楽のような効果を出すか。これが、西洋のフルートなどと大きく異なる、バーンスリーの演奏技術の難しさである。
 本日の主奏者ハリジーは、このような「難しい」楽器を苦もなく流麗に操る。ハリジーは、ヒンドゥスターニー音楽界一の人気を誇り、欧米で「フルートのショパン」と称されているが、バーンスリーという、この単純であるが故に難しい楽器の演奏技術に費やされた時間と根気と集中力は並大抵ではなかったはずである。

アジアの音楽シリーズ・プログラム掲載文
第17回 アジアのスーパーフルーティスト3~インドの笛、日本の笛
1998年10月4日(日)