「笛吹きたちの饗宴」公演を聞いて

 11月25日、「笛吹きたちの饗宴」と題された演奏会が、川西市みつなかホールで行われた。出演者は、中国笛の王明君(ワン・ミンジュン)、篠笛と能管の藤舎名生(とうしゃ・めいしょう)、尺八のクリストファー遙盟(ようめい)、テグムの洪鍾鎮(ホン・ジョンジン)、鼻笛トンガリのグラディス・ブガヨン・バラン、日本人若手フルート奏者4名、そしてこのコンサートを企画し、司会と一部自作品指揮をした松下功の各氏である。筆者もインドの竹の横笛、バーンスリー演奏が本業なので、とても興味深く聴いた。
 コンサートに登場した笛は、最初の土笛と、最後のアンサンブルで使われた西洋フルート以外は、どれも竹の管に穴を開けた、構造的にきわめて単純な楽器である。しかし、歌口、指穴、内部構造、運指、奏法などが違うので、それぞれが非常に特徴のある表現力をもっている。今回、それらを聴き比べることができたのは貴重な機会だった。

中国の土員と木邦笛

 最初のプログラムは、王明君による中国笛。古典曲「水龍吟」が、卵形をした陶製の土員(けん)という楽器で演奏された。かつて雅楽にも使われたというこの小さな楽器は、両掌で包み込むように抱えて演奏される。陶製ということもあり、土の匂いや古代ののびやかさが伝わってくる1曲だった。
 王の次の曲は、中国北部の木邦笛(ほうてき)による「上遊曲」。北部の笛はタンギング奏法に特徴があるという。この曲では、舌を小刻みに振るわせるフラッター・タンギングが使われていた。いっぽう、南部の曲笛(きょくてき)ではタンギングはあまり使われず、流れるような早い奏法に特徴がある。それにしても、南北の笛を吹き比べ、その特徴を聴かせてくれた王のテクニックは驚異的だ。

武士を思わせる藤舎名生

 王についで上下黒の紋付き袴姿で登場したのは、邦楽笛の世界では第一人者の藤舎名生。篠笛と能管をまるで刀のように脇差しにし、片足を浮かし気味に前傾姿勢で演奏する姿は、武士を思わせた。「鶴」は雪原の鶴をイメージして作曲されたという自作だった。墨絵を彷彿させる情景描写を透き通った篠笛で、鶴の動きの描写は能管でと、曲の途中で楽器を持ち替えて演奏される作品。管内の途中を狭くすることで産み出される能管のひしぎが耳に強烈に差し込んでくる。能管は、旋律楽器というよりも、洗練された効果音発声器であることがよく分かる。つぎの「五木の子守歌」での篠笛は、柔軟で透明な音質が印象的だった。

品行方正な尺八

 もういっぽうの日本の笛の代表が、尺八である。演奏したのは、日本在住30年になるアメリカ人のクリストファー遙盟。尺八が、国際的な拡がりをもつ楽器であることは、今回のクリストファーや、同じくアメリカ人であるジョン・海山・ネプチューンの活躍の例を挙げるまでもないだろう。
 彼の琴古流古典本曲「鶴の巣篭もり」は、非常に素直な、品行方正な演奏に聞こえた。古典本曲というと、強弱のはっきりしたダイナミズムにあるというイメージがあったからかもしれない。比較的年輩の、洋服を着た伝統的日本人聴衆が、羽織袴姿でピアノ椅子に座って伝統的日本楽器を演奏するアメリカ人を注視している図式が、なかなかにアイロニックだ。

郷愁を誘うテグム散調

 休憩をはさんで登場したのが、韓国のテグム(大琴)奏者、洪鍾鎮。それぞれ長さの異なる3本のテグムを紹介した。最長、最短のテグムは雅楽に、中サイズのものが、散調(さんじょう)などの民俗音楽に使われるという。
 演奏曲は、その中サイズのものを使った散調である。即興の要素も強い散調は、韓国のお琴である伽耶琴(カヤグム)と杖鼓(チャンゴ)という太鼓を伴奏に演奏されるのが一般的だが、今回はテグム1本のソロで演奏した。肩を振るわせて出す振幅のあるビブラート、中国笛と同じような、竹の皮によるサワリの張りのある音質、激しくむせぶような旋律は、散調独特の表現である。このテグム散調の曲調と音色に、篠笛や尺八以上に強い郷愁を覚えた。

いとしい笛、トンガリ

 青いワンピース姿の小柄なグラディス・ブガヨン・バランが演奏したのは、トンガリという鼻笛である。この楽器は、ルソン島北部山岳地帯のカリンガ族で使われる。彼女が説明していたように、なんともはかない音量のこの楽器は、自分を慰めるときや、男性が恋人に愛を伝えるのに使われる。バラン自身はカリンガ族ではないが、フィリピン伝統楽器の再生に意欲的な音楽家である。
 わたしは昨年、カリンガ族の音楽家を招聘するためにバギオまで出かけ、このトンガリや竹の打楽器を彼らに教わって作った。かつて首狩り族だったというカリンガ族は、高地部族のなかでも特に音楽が得意。彼らには、トンガリの他にサガイポという笛もある。カリンガ族の音楽は、トゥンガトゥンなど竹の打楽器によるものものもそうだが、たいてい6人一組となって演奏される。一人がひとつの楽器を演奏するのが基本だ。音程の違いがあったり、半拍ずらして演奏されるので、一人一人は単純なことの繰り返しなのに、全体ではうねるような複雑なリズム模様を創り出す。サガイポもこのように演奏される。
 6人一組で演奏されるカリンガの楽器のなかで、トンガリだけがまったく一人で演奏される。愛をささやいたり、個人の楽しみのためという機能に限定されるから大きな音量である必要がない。消え入りそうにはかない音量でもかまわない。したがって4本の西洋フルートと一緒に演奏された「Hinga」という曲では、硬質で重層したフルートの音がいっしゅん途絶えたときにフワッと立ち上がるトンガリの音がなんともいとおしく聞こえた。

「風の宴」と「七つの子」

 松下功作曲「風の宴」が氏自身の指揮によって全員で演奏され、コンサートが締めくくられた。西洋フルートをドローンのように使ったこの曲は、そのタイトルにふさわしくそれぞれの笛の特徴がじゅうぶん生かされていた。とくに、客席通路を巡回するフルートの音と、舞台上でやはり移動する各種の笛の音が会場全体を包み込む演出は、効果的だった。人間の吐息は、障害物に当たって音となる。笛という楽器は、発音構造が単純なだけに、もっともダイレクトに気を感じさせる。まさに、風が舞い、風が宴に興じていた。
 この「風の宴」の余韻にしばらく浸りたいと思った矢先に、最後の聴衆サービスなのか、司会の「一緒に歌いませんか」という呼びかけで「七つの子」が始まり、いきなりざわざわした気持ちになってしまった。コンサートが明確にエンタテインメントに徹したものであれば、このような出演者と聴衆の一体感を目的とした演出はある程度効果的ではあろう。しかし「芸術公演」と銘打っているわけだし、演奏が終わった後にしばらく静かに反芻する無音の時間があってもいい。こうした聴衆への「すりより」はわたしは好きではない。
 このような笛の名人たちの演奏を続けて聴くことができるコンサートはそう多くないので、聴衆にとっても貴重な体験だったに違いない。ただ、それぞれの笛は、弦楽器や打楽器などとの組み合わせによってより生きてくるものもある。贅沢をいえばきりがないが、そのような組み合わせによる演奏もあってもよかったのではないか。たとえば、韓国の散調は、杖鼓(チャンゴ)の乾いたバチの打音と特有のリズムが加わることで、その音楽世界はぐっと生きる。また、西洋フルート奏者がせっかく4人も登場したのに、主奏楽器としてではなく単なる引き立て役としてのみ使われたのは疑問だ。「一般的」な西洋フルートは、土地の匂いのする伝統楽器とは無縁だという意識がそうさせたのかもしれない。しかし西洋フルートも一種の「伝統」楽器だと思うのだが。

兵庫県芸術文化協会機関誌掲載(2002)